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第10話

ひとまず、当座の荷物だけ持って矢崎くんのお家に移動した。


「新居、純華の意見も聞いて、とりあえずいくつか候補を挙げるっていうのでOK?」


「OKだけど。

でも、私がこっちに移ってくるっていうのでもよくない?」


矢崎くんの住んでいるマンションは広い。

リビングダイニングだけで私が今住んでいるマンションのリビングと寝室をあわせたくらいあるし、さらに寝室の他に書斎とゲストルームもある。

これだけあれば子供がいなければ……って、子供ができても余裕で生活できると思う。


「よくない。

子供ができたらマンションはなにかと不便だろ?

俺はのびのびと子供を育てたいし。

それにここは賃貸だからな」


嫌そうに眼鏡の下で彼の眉が寄る。

確かにマンションだと子供の足音とか声とか気にしないといけないから、そこはわかる。

しかし、賃貸が嫌って、それって。


「……新居、買う気?」


「買う気だけど?」


なに聞いてんの?って感じで矢崎くんは瞬きをした。

それは困る。

私的には非常に困る。

だって私としてはこの結婚生活は、彼が会社を継ぐと決まり、彼の両親、ひいては祖父である会長に紹介されるまでの期間限定のものなのだ。

……矢崎くんには言えないけれど。


「いっそ、建ててもいいよなー。

どっかいい土地、なかったっけ?」


タブレットを取り出し、矢崎くんはなにやらやっている。


「えーっと、矢崎くん?」


「ん?

あ、ここの駐車場潰して、新居にするのもいいよな」


ぱっと顔を輝かせ、彼は画面を見せてきた。

そこには地図が表示されている。


「ちょっと聞くけど。

駐車場を潰す、って?」


そこから、理解ができない。

普通の会話ではまず、出てこない言葉だ。


「言ってなかったっけ?

俺、いくつか不動産持ってるの。

ここの駐車場なら上物が立ってないからすぐ潰せるし、場所もいいから新居建てるのにちょうどいいかなって。

住んでみて不便なら、また引っ越せばいいし」


さらりと言われて自分との経済力の違いを改めて認識した。

普段はごく普通の同期社員なので、そのギャップが凄い。


「矢崎くんは御曹司だもんね……」


はぁーっと嘆息とも呆れともつかないため息が落ちていく。


「てか、よく普通のサラリーマンに擬態してるね?

おかげで全然、気づかなかったよ」


御曹司なんて縁のなさそうな牛丼屋とかファストのお店も普通に入っていたし、愛用のボールペンはどっかのお店の開店記念でもらったヤツだし。

それで御曹司だって気づけっていうほうが難しい。


「言っただろ?

確かに祖父ちゃんはうちの会社の会長だけど、俺んちはちょっとだけ裕福な普通の家庭なの。

純華んちと大差ないよ」


そうなんだろうか。

ついつい、部屋の中を見渡してしまう。


「その割にいい部屋に住んでるっていうか……」


「ん?

ここはさ、就職祝いに祖父ちゃんが借りてくれたの。

ただし、出してくれたのは敷金礼金だけ。

このくらいの部屋が維持できなきゃ、後を継ぐなんて無理だ、って」


そのときを真似しているのか、矢崎くんが厳しい顔になる。


「ふぉぇー」


推定されるここの家賃で借り続けるなんて、かなり大変そうだ。

意外と苦労しているんだな、なんて思ったものの。


「まあ、一緒に株とか不動産とか譲ってくれたけどな。

給料だけだと無理だし、その辺を運用して稼いで維持してる」


御曹司ならではのチート発動でがっかりした。

でもあとで、六つ年下のアイツの息子――矢崎くんの従弟は同じ条件で、もらった株や不動産を即売却して使い切り、マンションは親に払ってもらっていると知り、見直したのも事実だ。


「今度、駐車場の場所を見に行くか。

宅地OKだったと思うけど、確認しないとな。

純華が気に入ってくれたら、工務店を当たって……」


もう家を建てる気なのか、矢崎くんは計画を練っている。


「あの、さ」


「ん?」


「しばらくはここでよくない?

子供とかすぐにできるわけじゃないんだし」


そのときが来たら別れるのだ、なのに家を建てるとか申し訳なさすぎる。


「嫌だ。

俺は早く子供がほしい。

今から家を建てても遅いくらいだ」


腕を組み、彼がうん、うん、と頷く。


「そ、そうなんだ……」


それをなんともいえない気持ちで見ていた。

矢崎くんがこんなに頑固だなんて知らなかったし、正直、ちょっと面倒だなっていう気持ちもある。

あと、〝子供は三人、あとは犬を飼う〟という夢は叶えてあげられないので、心苦しかった。

……あ。

でも。

家を建てるのはあれでも、ペットOKの物件に引っ越せば、犬だけは叶えてあげられるのか……。


「じゃあ、さ。

……家、借りない?」


おずおずと上目遣いで矢崎くんに提案してみる。

彼はなぜか眼鏡から下を手で覆い、私から目を逸らした。


「……可愛すぎる」


「は?」


なにを言われているのかわからず、思わず瞬きをしてしまう。


「いや、なんでもない」


しかしすぐに彼は小さく咳払いし、普段どおりを装ってきた。


「だから、賃貸は嫌だって言ってるだろ」


「わかってる。

でもさ、慌てて家を建てたら、あとで悔やむ結果にならない?

だったらいつ子供ができてもいいように一軒家を借りて、じっくり計画を立ててから家を建てたほうがよくない?」


これで納得してほしいと、レンズ越しにじっと彼の目を見つめる。


「……ふむ」


矢崎くんは軽く握った手を顎に当て、考え込んでしまった。

これで妥協してほしいと願いながら、彼が口を開くのを待つ。


「純華の言うことも一理あるな」


「でしょ!?」


納得してくれそうな気配を感じ取り、さらに畳みかけた。


「ペットOKの物件借りたらすぐにでも犬を飼えるし。

それでいいんじゃない?」


「犬が!?」


すぐに矢崎くんが食いついてくる。


「そう。

犬が飼えるよ」


「犬かー。

それはいいよなー」


想像しているのか、彼の顔がうっとりとなった。

私も同意だと何度も頷いてみせる。


「よし、じゃあ家を建てるまで住む、一軒家を借りよう。

それでいいか?」


「オッケーだよー」


にっこりと笑って彼に答える。

とりあえず、家を建てるのは回避されてよかった。


食事はして帰ってきたので、あとはお風呂に入って寝るだけなんだけれど。


「一緒に入るか?」


なぜか私の顎をくいっと持ち上げ、矢崎くんが聞いてくる。

レンズの向こうからは悪戯っぽく光る瞳が私を見ていた。


「……誰が」


「ん?」


「誰が一緒に入るかー!」


「おっと」


反射的に繰り出された拳は、彼の手によって阻まれる。


「いまさら恥ずかしがる仲でもないだろ?」


「恥ずかしがる仲だよ!」


不思議そうな矢崎くんに力一杯言い切った。

酔って送って帰ってもらったことは多々あるが、裸体どころか下着姿すら晒していないのだ。

なのに〝いまさら〟って、なにがいまさらなのかわからない。


「ま、どうせあとで見るからいいか。

ほら、先に入ってこいよ」


「……そうする」


譲ってくれたので素直に、先に洗面所兼脱衣所へと行く。


「はあぁぁぁぁぁぁぁっ」


ひとりになって、腰が抜けたかのようにその場に座り込んだ。

なんというかさっきの矢崎くんは、凄く……すごーく色っぽくてドキドキした。

今だってまだ、心臓の鼓動は落ち着いていないくらいだ。

こう、夜の大人の色香っていうか?

ラストノートの官能的な甘い香りと相まって、うんと頷きそうになっていた。

危ない、危ない。


「うーっ」


浴槽に浸かり、ひとりで唸る。

もっと、気を引き締めていかねば。

さっきみたいに迫られて、一線を越えてはいけないのだ。

矢崎くんには申し訳ないけれど、身体の関係だけは結ぶまいと決めていた。

これは私にとって仮初めの結婚関係。

そのときが来たときに子供ができていては困る。

――それに。

彼に愛されているのだという実感は、少しでも薄くしておきたかった。

そうじゃないと別れるとき、つらくなる。


「あがったよー」


「じゃあ、俺も入ってくるな」


私と入れ違いで矢崎くんが浴室へ消えていく。

ソファーに座り、今日のニュースなんかチェックしていたら、彼があがってきた。


「じゃあ、寝るか」


「そうだね」


一緒に寝室へ行くと思ったとおり、押し倒された。


「……ごめん」


迫ってきた顔を押さえ、目を逸らす。


「嫌か?」


私を見下ろす彼は傷ついているようで、私の胸も痛くなる。

それでも黙って頷いた。


「じゃあ、仕方ない」


彼は淋しそうに小さくため息を落とし、私から離れた。

それを見て、鋭い錐でも打ち込まれたかのように胸がさらに痛む。


「違うの!

矢崎くんが好きだよ。

好き、だから抱かれたくないの……」


じわじわと浮いてきた涙を誤魔化すように鼻を軽く啜る。

矢崎くんがただの同期ならこの身を任せていた。

しかし彼は、ゆくゆくはこの会社を背負っていく人なのだ。

どんな理由にしろ、あの父の娘である私と夫婦だなんて許されない。


「純華?」


矢崎くんの手が心配そうに私の頬に触れる。


「それって、どういう?」


「……ごめん、言えない」


それを晴らすように精一杯、笑って彼に答えた。


「純華は言えない秘密ばっかりだな」


悲しそうに矢崎くんの顔が歪む。

私も大事なことをなにひとつ彼に言えない自分が、情けなかった。


「……ごめん」


「謝らなくていいよ」


そっと彼の親指が、目尻を撫でる。

そのまま下りてきた手は、私を抱き締めた。


「覚えておいて。

俺は純華にどんな秘密があっても、純華を愛してる。

それがたとえ、犯罪でも」


証明するかのように、ぎゅっと彼の腕に力が入る。


「……ありがとう」


今はそう言っていても、真実を知れば気持ちは変わるかもしれない。

それでも、矢崎くんの言葉が嬉しかった。

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