翌日は母がお昼にお寿司を取るというので、それにあわせて矢崎くんの運転で実家へ行った。
そう。
彼は車を持っていて、しかもSUVタイプの高級外車だったが、それにはもう触れない。
「ただいまー」
「おかえりー」
ドアを開けるとすぐに、母が出てくる。
「こんにちは」
爽やかに白い歯を見せて矢崎くんは笑って挨拶したが、私に言わせれば胡散臭い。
しかし。
「まあ。
あら、あら……!」
母には効果があったみたいで、乙女のように頬を赤らめた。
「もう。
こんなイケメンの彼氏がいるならそりゃ、見合いも断るわよね。
早く言いなさいよ」
「えっと……ごめん」
お茶を淹れている母に、曖昧な笑みを向ける。
あの日、母との電話の時点では、矢崎くんと結婚するなんて微塵も思っていなかったのだ。
「突然お伺いして、すみません」
「いいのよー。
こんなイケメンならいつでも大歓迎だわ」
にこにこ笑いながら母がお茶を出してくれる。
しかし、機嫌がいいのはここまで。
きっと彼の正体を聞いて、機嫌が悪くなる。
もしかしたら帰れと言われるかもしれない。
それを想像して、そわそわと落ち着かなかった。
「えっと。
結婚……を考えている、矢崎さん」
さすがに結婚したとは言えず、言葉を濁す。
「矢崎紘希と申します。
純華さんとは同じ会社の同期です」
矢崎くんは頭を下げた。
「そういえばときどき、純華から聞いたことがあるわ」
期待を込めてぱーっと母の顔が輝く。
「もしかしてずっと前から付き合ってたの?」
「えっ、あっ、それは」
「付き合い始めたのはつい最近です。
でも、ずっと前から互いに意識はしていて。
それで、もういっそ結婚しようかという話になりまして」
爽やかに笑いながらすらすら嘘が出てくる矢崎くんが恐ろしい。
しかし今はそれに乗るしかないので、うんうんと頷いておいた。
「そうなの。
純華から聞いているでしょうが、うちは母子家庭なの。
夫は女を作って出ていってね。
そういうの、親御さんは気にしないかしら?」
母は笑っていたが、その目は完全に矢崎くんを試している。
「気にしないと思います。
父は弁護士で、お母様のような人を守る立場の人間ですし。
それにもし、万が一にもそれを理由に反対するようなら、僕のほうから縁を切ってやりますよ」
「あら。
お父様は弁護士なの?」
「はい、父は弁護士をしております。
ちなみに母は専業主婦ですが、子供食堂でボランティアをしております。
そんな人たちなので、純華さんが母子家庭だという理由で反対しないと思います」
「立派なご両親なのねー」
さっきから母と矢崎くんの会話が、腹の探り合いに見えるのは私だけだろうか。
まあ、母としては変な人間に娘をやるわけにはいかないだろうし、そうなるか。
「そんなご家庭なのに、なんで普通の会社員を選んだの?」
母の質問に、矢崎くんよりも私のほうが緊張した。
この先を聞くのが怖くて、逃げ出したいくらいだ。
「祖父が今勤めている会社の会長をしておりまして。
その後を継ぐためにこの会社に入りました」
「……そう」
母の声は落胆の色が濃い。
きっとこの答えを聞くまでは、矢崎くんにかなりの好印象を抱いていたのだろう。
でも、彼の正体を知ってしまったから。
「祖父の七光りっていいわね」
たっぷりの皮肉を込めて母が言う。
「違うの!
矢崎くんはそうやって言われるのが嫌で、普通の一般社員として扱ってほしくて、会長との関係を隠して働いているの!」
思わず、彼を庇っていた。
それにそうやって言われるのを彼が嫌っているって、もう理解している。
「真面目だし、アイツとは違うんだよ」
「でも、アイツと血が繋がっているんでしょう?」
苦しげに母の顔が歪む。
いまだに母も、あの件で苦しんでいる。
だからこそ、矢崎くんとの結婚を迷ったのもあった。
「あの。
……アイツ、って?」
話に置いてけぼりを喰らっていた矢崎くんが、控えめに聞いてくる。
「あー……。
鏑木社長の、こと」
言いにくい、しかし答えないわけにもいかず、その名前を口にした。
「アイツとなにかあったのか」
心配そうに眼鏡の下で、矢崎くんの眉が寄る。
「ええっと……」
本部会社でも悪名を轟かせている彼のことだ、私が嫌がっているのは不思議ではない。
しかし関係ない母もとなると、不思議に思うだろう。
「ちょっと、ね」
しかし、適当に笑って誤魔化した。
これは父の気持ちを立てるため、母と私と、あの人の胸の中にだけに留めておこうと決めた話なのだ。
「……はぁーっ」
重いため息が矢崎くんの口から吐き出される。
次の瞬間。
「申し訳ありませんでした!」
彼はソファーから下り、土下座をした。
「アイツと血が繋がっているなんて吐き気がするほど嫌なんですが、それでも身内の不祥事です。
なにをやったか知りませんが、謝ります!」
「え……」
さすがに私も母も、矢崎くんの勢いに気圧されて、唖然とした。
「アイツに嫌な思いをさせられて、血の繋がる俺と娘さんとの結婚に反対なのはわかります。
でも、俺は誠心誠意、純華さんを大事にし、愛することを誓います。
アイツにも近寄らせません。
だから俺たちの結婚を許してください……!」
顔を上げて真っ直ぐに母を見る、レンズの向こうの瞳は、強い決意で光っている。
「お母さん、お願い。
矢崎くんとの結婚を認めて」
彼の隣で、私も頭を下げた。
母はなにも言わない。
「……わかったわ」
まるでため息のように母は言葉を吐き出した。
「あなたはアイツと違って、とても真面目な人みたいだし。
結婚を許可します」
まるで仕方ないわね、とでもいうように母が笑う。
それでほっとしたのも束の間。
「でも。
少しでもアイツと同じだと思ったときは、速効で別れてもらいますからね」
すっと細くなった母の目はどこまでも冷たくて、肝が冷えた。
「肝に銘じておきます」
矢崎くんも同じだったらしく、神妙に頷いた。
そのあとは比較的穏やかに、取ってあったお寿司を三人で食べた。
なんだかんだ言って母も、アイツと血縁というのを除けば、矢崎くんを気に入っていた。
「紘希くんの親御さんとの顔合わせとか、式の日取りとか、決まったら早く教えてね」
「わかったー」
和やかムードで実家をあとにする。
「よかったー、純華のお母さんが結婚を認めてくれて」
矢崎くんは心底ほっとした顔をしているが、昨日は自信満々でしたよね?
「そんなに不安だったの?」
「だって純華が散々、不安を煽っただろ。
しかもアイツの話が出て肝が冷えた」
「そうなんだ」
いつもさらっとなんでもこなしてしまう彼にも、こんな不安があったりするのだと初めて知った。
「……アイツと、なにがあった?」
「え?」
真っ直ぐ前を見たまま運転している矢崎くんの顔を、思わず見ていた。
「さっきは聞けそうな雰囲気じゃないから、聞かなかった。
でも、やっぱり知りたい」
これは今後、彼の弱点になる話なのだ。
話さなければいけないのはわかっている。
それでも。
「ごめん。
今は言えない」
「〝今は〟ってことは、いつか話してくれるんだよな?」
「……そう、だね」
誤魔化すように言い、窓に肘をついて流れていく景色を見る。
……ごめん。
これは矢崎くんにも絶対に言えない。
そのときが来たら、私は黙ってあなたの元を去るよ。
それまでは、私と夫婦でいてください……。