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第8話

矢崎くんのおかげで仕事はかなり速く終わった。


「ありがとー、助かった!」


思った以上に進められたので、来週は少し楽になりそうだ。


「いや。

俺も早くレポート書いてしまって、純華の仕事が楽になるように頑張るな」


バッグを持ち、一緒に立ち上がる。

こうやって気遣ってくれるところ、よき同期だ。


「なに食べて帰ろうか」


「あ、いや」


今日こそ普通に家に帰り、溜まっている家事をやってしまいたい。

なんて私の思いは無駄に終わった。


「あ、溜まってた洗濯して、軽く掃除機もかけておいたぞ。

トイレ掃除と風呂掃除もしておいた」


さりげなく言って、矢崎くんが手を繋いでくる。


「え、矢崎くんがしたの?」


「俺がしなくて誰がするんだよ」


私の疑問に彼は若干不服そうだが、……ねぇ。


「だってあんなところに住んでる御曹司?

がトイレ掃除とかするとか思わないよ」


家政婦さんを雇っていると言っていたし、家事はほとんど任せていそうだ。


「確かに広い意味で俺は御曹司だが、俺の家は普通より少しだけ裕福な家だ。

小さい頃から手伝いはしていたし、ゴミ出しだってするし、トイレ掃除だってする」


なんかちょっと意外というか。

でも、こういうのは旦那様加点が高い。


「そうなんだ。

ありがとう」


素直にお礼を言った時点で気づいた。

洗濯も矢崎くんがしたってことは、下着も見られた?


「あー、えっと。

洗濯って下着も……」


「洗ったぞ、もちろん」


……デスヨネー。

一緒のかごに入っているのに、下着だけしないとかないもん。


「なにをいまさら恥ずかしがってるんだよ。

純華だって俺の下着、洗濯するだろ」


「いや、それとこれとは違うというか……」


確かに矢崎くんが泊まった日、彼の下着を洗濯している。

それに防犯をかねて一緒に干しておけって言われていたしね。

でも、彼のボクサーパンツを私が洗うのと、私の下着を彼が洗うのではなんか違う気がする。


「なにが違うんだ?

……ああ。

純華ってけっこう、可愛い下着つけてるんだなーとは思ったけど」


「そこだよ!」


思い出しているのかにやけている彼に、間髪入れずツッコんだ。


「そうやって想像されるのが、嫌」


「そうか、じゃあ気をつける」


大真面目に彼が頷くので、なんかそれ以上怒れなくなった。


「なあ。

寄らない?」


駅近くのファッションビルの前で、矢崎くんが私の手を軽く引っ張る。


「あー……」


ファストファッションの店は見たいし、飲食店も入っているのでそこで夕食を食べて帰ってもいいかもしれない。


「いいよ」


なんて、気軽な気分で入ったものの、数分後には後悔していた。


「ええっと……」


「下見だよ、下見」


矢崎くんが私を連れてきたのは、宝飾店だった。


「下見ってさ……」


明日、母に会うまではどうなるのかわからないのだ。

それに、矢崎くんのご両親はわからないが、祖父――会長から許しがもらえるとは思えない。

だからこれ――結婚指環は買わずに終わらせようと思っていたのに。


「今日買うわけじゃないからいいだろ」


「そう、だね」


曖昧に笑い、一緒にショーケースを見る。

本心では彼との結婚指環は欲しい。

これくらい、夢見ても許されるよね?


「シンプルなのがよくない?」


「え、純華のはダイヤがついてるのがいいだろ?」


「マリッジリングをお探しですかー?」


ふたりで仲良く見ていたら、気づいた店員が寄ってきた。


「はい。

でも今日は下見なので」


「では、なにかありましたらお声がけください」


会釈して、店員が離れていく。

おかげで、ゆっくり見られた。


「やっぱり、プラチナがいいな」


「そうだねー」


いろいろ見させてもらい、店員にお礼を言って店を出ようとしたところで、矢崎くんが足を止めた。


「なあ。

純華って三月生まれだよな?」


「そうだけど?」


彼の視線の先には、ネックレスが並んでいる。


「これはどうだ?」


強引に私を連れていき、彼が指さしたのは、雫型をしたブルーの石がついた、プラチナのネックレスだった。


「どうって……?」


意味を図りかねて、矢崎くんの顔を見上げる。


「婚約指環も改めて買うけど。

でも、当面の代わり?

ちょうど三月の誕生石のアクアマリンだし」


「えっ、そんなの悪いよ」


ダイヤをあしらってあるのもあって、それはそこそこの値段がついている。

そんなものをこんな気軽に買ってもらうわけにはいかない。


「悪くない。

どうせ結婚指環買っても、会社じゃ着けられないだろ?

これが純華の胸もとに下がってるのを見るたびに、〝俺の奥さん〟って嬉しくなるからいいの。

そうだ、俺もアクアマリンの石がついた、ネクタイピンを買うか。

そうすればお揃いだ」


もうその気なのか、矢崎くんは店員に言ってネックレスを見せてもらっている。


「でも、ほら。

明日、ダメになる可能性もあるんだし……」


本音で言えば、嬉しい。

でも、別れるときに彼との思い出になるものは避けたかった。


「絶対にお母さんを説得するから大丈夫だ。

だから、ほら」


手に持ったネックレスを、彼が私の胸もとに当てる。


「うん、いいな。

これ、ください」


「あっ」


結局、私の反対など聞かず、彼はそれを買ってしまった。


夕食は食べて帰ろうと、同じビルの、適当な店に入る。


「……いいって言ったのに」


むすっと不機嫌なフリをして料理を口に運ぶ。


「よくない。

結婚指環の代わりはいるだろ」


矢崎くんも同じく不機嫌に料理を食べている。


「それは、そうかもだけど……。

でも、こんな高級なもの」


「純華が怒ってるのはそこなんだ?」


意外そうな声が聞こえ、顔を上げる。

レンズ越しに目のあった彼は、なぜか嬉しそうに笑っていた。


「そりゃそうでしょ?

結婚指環も婚約指環も買うんだったら、代わりでこんな高いもの買わなくていいじゃない」


もっともらしい理由を口にする。

それにこれは嘘ではないし。


「高いものって、俺にとってははした金みたいなもんだが?」


「……は?」


なにを言われているのかわからなくて、何度か瞬きしてしまう。

少し考えて、彼は高級タワマンに住む、御曹司なのだとようやく思い至った。


「あ、いや。

だってさ……」


なんか、自分の拘りポイントがズレていた気がして恥ずかしい。

俯いてちまちまと料理を食べた。


「……それでも別に特別でもなんでもないのに、こんな高いものをぽんと買ってもらうのは悪いよ」


うん。

私は別に、矢崎くんがお金持ちだからと結婚を決めたわけではない。

気があって、一緒にいると楽しい人。

それだけだった。

知ったあとだって、彼の考えが私の欲しい答えだったからで、お金は関係ない。


「ふぅん。

純華は俺の金で楽したいとか思わないんだ?」


「全然。

欲しいものは自分で稼いで買うし、結婚したからってお気遣いは無用だよ。

もっとも、夫婦なのは今日までかもしれないけど」


なにが嬉しいのか、さっきから矢崎くんはにこにこしっぱなしだ。


「やっぱ俺、純華と結婚して正解だったな」


伸びてきた手がするりと唇の端を拭って離れる。


「ゴマ、ついてた」


「えっ、うそっ!?」


慌ててそこに触れるが、もうあるわけがない。


「明日はお母さん、頑張って説得しないとなー」


もう、母に反対される可能性が高いのは、理由は誤魔化して伝えてある。

なのに矢崎くんは楽しそうでわからなかった。

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