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第6話

片付けは食洗機があるからと矢崎くんがさっさとしてしまった。


「いってきます」


出社する準備ができたところで、彼が私にキスしてくる。

それを避けようと顔を背けたら、手で掴まれて強引に唇を重ねられた。


「だからー」


「嫌なら引っ叩けばいいだろ」


「うっ」


抗議したところで矢崎くんは涼しい顔をしている。

それに私にも彼を叩くなんて気持ちはまったくなかった。


「あ」


鞄を手に玄関に向かいかけた矢崎くんが、なにかを思い出したかのように足を止める。


「会社では俺たちが結婚したことは内緒な」


悪戯っぽく彼が、人差し指を唇に当てる。


「会長とか身内にバレるといろいろ面倒だからさ。

今抱えてる仕事が上手くいったらうるさい連中も黙らせられるから、ちょっと待ってくれ」


さらに彼は、片手で私を拝んできた。


「ああ、うん。

わかったよ」


そうか、矢崎くんも後継者としていろいろ事情があるんだ。

鏑木社長みたいに後継ぎを公言して憚らない人もいるもんね。

その理由にだけは納得した。


一緒に並んで駅までの道を歩く。


「引っ越しは追い追いするけど、とりあえず今日から俺んちに住めよ」


「ええーっ」


つい、口から不満が漏れる。

だって私はまだ、離婚を諦めていないのだ。


「ええーっ、じゃない。

終わったら純華んち行って、荷物持って俺んち。

わかったな?」


そんなこと言われたって、承知できるはずがない。

なのに。


「わかったな」


私の前で振り返り、矢崎くんが指先を突きつけてくる。

眼鏡の奥の目は真剣で、私に拒否を許さなかった。


「う、うん」


おかげでつい、頷いてしまった。


仕事はいつもどおり……ではなく、ママさん社員の加古川かこがわさんから、子供の調子が悪いので休むと連絡が入っていた。

まあ、それもいつもどおりといえばいつもどおりだけれど。


仕事の合間を縫って資料を漁り、昨日の「瑞木係長は子供がいないからわからないでしょうけど」案件の解決に乗り出す。

私はいったい、なにを見落としている?

自分には子供はいないが、友達の子供を連れていったと想定して考え直した。


「ああ、そうか」


ベビーカーで入るには、段差が多い。

スロープもあるが、遠回りしてもらわなければならない。

これではベビーカーの人はもちろん、車椅子の人も困るだろう。


「スロープの位置を見直して……」


解決策が見えればあとは簡単だ。

私はマウスを操作し、新しい会場案を作っていった。


終業時間までに今日やってしまわないといけない仕事を終わらせ、加古川さんの仕事に手をつける。

手つかずの資料をまとめ、請求書の下書きも作った。


「純華ー」


加古川さん用に伝達事項まとめを作っていたら、矢崎くんが迎えに来た。

ちゃんと私の仕事が終わる頃を見越してくるあたり、さすがだ。


「もう終わるから」


「うん、そこで待ってるな」


「うん」


彼が休憩コーナーを指す。

それに頷き仕事を速攻で終わらせる。


「お待たせ」


「いや、いい」


一緒に裏口から会社を出る。

部署に残っている人間はもういなかった。


「夕食、どうする?」


「あー、そうだね……」


今度こそ、離婚の話をしなければならない。


「あそこの居酒屋、行こうか」


たまに行く、個室の居酒屋を提案する。


「いいよ」


矢崎くんも承知してくれてほっとした。


お店に入り、矢崎くんはハイボール、私はウーロン茶を注文した。


「飲まないのか?」


「あー、うん」


曖昧に笑って言葉を濁す。

酔って昨日みたいに勢いで変な決断をしては困る。


「こんなに残業して、規定は大丈夫なのか?」


すぐに届いたハイボールを飲みながら、矢崎くんは心配そうだ。


「……はっきり言って、ヤバい」


もうずっと、上司と人事からこの件では注意を受けっぱなしだ。

かといって残業、休日出勤しないように注意するだけで、一向に解決案は考えてくれないが。


「だよなー。

でも俺から口出しできないし……」


はぁーっと苦悩の濃いため息が矢崎くんの口から落ちる。

他の部の一課長から進言されたところで、部外者がなにをと一笑されるのがオチだろう。


「今の仕事が上手くいったらいろいろ口出しできるようになると思うけど、それまでに純華が倒れかねないもんな……」


また、矢崎くんの口からため息が落ちていく。


「その気持ちだけでもありがたいよ」


まわりはしばらくの我慢だからとしか言わないが、彼はこうやって私を気遣ってくれる。

それだけで嬉しかった。


「いや。

これは会社にとって大問題だ。

しばらく様子見てたけど、全然改善しないし。

純華ももう、限界だろ?

会長に言うよ。

ちょっとやり方が汚いけどな」


自嘲するように矢崎くんは笑っているけれど。


「え、いいよ。

そんなことして矢崎くんの立場が悪くなったらヤだし」


そういう越権行為というか密告というかいうのをやって彼が他の役員から睨まれたりしたら、申し訳なさすぎる。


「純華は優しいなー」


私の心配などわからないのか、矢崎くんは実に締まらない顔でへらっと嬉しそうに笑った。


「大丈夫だ。

問題提起から解決案までセットで提案すれば、将来の経営者テストとして見てくれるからな。

それにうちには目安箱制度もあるだろ。

あれだ」


笑って彼は唐揚げを食べているが、そんなもんなのかな。

ちなみに目安箱制度とは、役員に直、誰でも意見を上げられる制度だ。

江戸時代の制度から通称で目安箱と呼ばれているが、正式名称は別にある。

一階ロビーにコーヒーショップが入ったのも、このシステムに提案があったかららしい。


「じゃあ……。

よろしくお願いします」


改めて正座をし、矢崎くんに頭を下げる。

なにはともあれ、仕事の負担が減れば嬉しいし。


「よせよ。

俺は純華のためだったらなんだってするよ?

それにこれは、会社の問題でもあるからな」


重く彼が頷く。

こういう彼の真面目なところは、昔から尊敬していた。


「……で。

りこ……」


「しない」


みなまで言い切らないうちにまた、全力で拒否される。

しかもそっぽを向いて私と目すらあわせないし。


「なんでそこまで、私との結婚に拘るのよ?」


面倒臭いとため息が落ちていく。

もうすでに誰かに公表しているとかならあれだが、現時点で私たちの結婚を知っているのは私たち自身と、処理をした役所の人間しかいない。

なら、書類上の記録は残るが、表面上はなにもなかったことにできるはずだ。

なのにこんなに、矢崎くんが私との結婚に拘るのかわからなかった。


「反対に聞くが、どうして純華はそこまで俺と離婚したいんだ?」


「うっ」


聞かれても私の事情は絶対に話せない。

これは父の意思を尊重して、墓場まで持っていくと母と決めたのだ。

だから矢崎くんが私の旦那様でも、これは話せない。


「……私が将来、矢崎くんの弱みになるからだよ」


かろうじてそれだけを絞り出した。

それにこれは嘘ではない。

もし私の父のことを知れば鏑木社長は私を糾弾するだろうし、会長も矢崎くんの親もいい顔はしないだろう。

それどころか、矢崎くんからも見放される可能性がある。


「母子家庭なのを気にしてるのか?

そんなの、いまどき珍しくないだろ。

それとも父親が女を作って出ていったほうか?」


テーブルに腕を置き、矢崎くんが軽く前のめりになる。

両親の離婚の理由は父親の浮気ということにしてあるが、これは本当ではない。

適当に誤魔化す理由が必要でも、父を病死などで殺せなかった。

母も嘘でも父さんを殺せないしと、苦笑いでこの理由を承知している。

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