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第5話

起きたらすでに矢崎くんはいなかった。

リビングへ行くと、お味噌汁のいい匂いがする。


「おはよう、もう起きたのか。

せっかくおはようのキスで起こしてやろうと思ってたのになー」


起きてきた私に気づき、彼が残念そうに笑う。

おはようのキスとやらは避けたいので、自力で起きてよかった。


「もうできるから、さっさと顔洗ってこーい」


ワイシャツを腕まくり、黒エプロン姿でキッチンに立つ矢崎くんは悔しいが絵になる。

声をかけられて、見惚れていた自分に気づいた。


「……うん」


逃げるように洗面所へ行き、顔を洗う。

起きたら旦那様が朝食を作ってくれているなんて、最高のシチュエーションだとは思う。

でも、彼は私にとって結婚してはいけない相手、で。


「準備できたんなら食べようぜ」


「……うん」


ご飯をよそい、ダイニングテーブルに着いた私の前に矢崎くんが置いてくれる。

豆腐とワカメのお味噌汁にご飯、鮭とほうれん草のおひたしに、切り干し大根の煮物。

まるで旅館の朝ごはんのようで、驚いた。


「料理、できたんだ?」


「ん?

ああ。

俺は味噌汁作って鮭焼いただけだけどな。

あとは家政婦さんの作り置き」


「……そうなんだ」


照れたように人差し指で矢崎くんが頬を掻く。

そんな彼の口からさらりと〝家政婦〟なんて出てきて、やはり私とは住む世界の違う人なのだと実感した。


「なに変な顔してるんだよ。

料理はできるぞ、一応。

でも、忙しいから家政婦さんに作り置きをお願いしているだけで」


私の反応が不満なのか、不機嫌そうに彼はご飯を口に運んだ。


「あ、いや、家政婦さんが狡いとか思ってるわけじゃないよ」


慌てて笑って取り繕う。


「それに私の朝ごはん、いつもシリアルだけだしさ。

それに比べたらお味噌汁作って鮭焼くだけでも偉いよ」


「やった、純華に褒められた」


機嫌は直ったのか、嬉しそうに口元を緩ませて矢崎くんはお味噌汁を一口飲んだ。

そういう素直で純粋なところ、もうすっかり拗れてしまった私から見れば凄く眩しかった。


「明日の土曜は仕事だっけ?」


「そう」


食事をしながらさりげなく矢崎くんが聞いてくる。


「日曜は?」


「場合によっては仕事」


ママさん社員の仕事のフォローをしている私は実質、ふたり分の仕事を抱えている状態だ。

平日だけで片付かない仕事は土日にやるしかない。


「……まだ改善しないんだな」


眼鏡の下で深刻そうに矢崎くんの眉が寄る。


「そうだね」


それになんでもないように答え、鮭を解す。

上司には現状を訴えたものの、しばらくの辛抱だからと取り合ってくれない。

人員補充で入ってきた社員が三日で辞め、人手不足なのもわかる。

なら、私がやるしかないのだ。


「そうやって頑張るとこ、純華のいいところだけど悪いところだぞ」


行儀悪く矢崎くんが箸の先で私を指す。

それを睨んでいた。


「わかってるよ」


回せる仕事はできるだけまわりに振っている。

それでも、どうにもならないのだから仕方ない。


「新居も探さなきゃだし、指環も買いに行きたいけど、当面は無理かなー」


はぁーっと諦めるようなため息が矢崎くんの口から落ちる。


「あのさ」


「なに?」


「離婚……」


「しない」


全部言い切らないうちに、被せるように彼は拒否してきた。


「どうしてそこまで、私に拘るの?」


「俺は純華が好きだからだ」


彼の答えを聞いて、私の口から重いため息が落ちていく。


「私のどこがいいの?」


「真面目で、笑うとすっごく可愛いところ」


「……は?」


即答されて、穴が開くほど矢崎くんの顔を凝視していた。

真面目は、わかる。

真面目すぎて周囲からは敬遠されがちだ。

でも、〝笑うと可愛い〟が理解できない。

それだけならまだしも、さらに〝すっごく〟がつくともう、わけがわからなかった。


「えっと……。

その眼鏡、あってる?」


もうそれ以外に私が可愛く見える要素なんて考えつかない。


「あってるが?

一週間前に新調したばかりだし。

てか純華、気づいてくれないんだもんなー」


不服そうに彼が唇を尖らせる。


「……ごめん」


なんとなく謝ったが、これは私が悪いのか?

前と同じ黒縁スクエアの眼鏡だから、どこが変わったのかわからないんだけれど。


「純華は笑うと可愛いよ。

俺はその笑顔に惚れたんだ。

きっと純華は、覚えてないだろうけど」


「はぁ」


矢崎くんは朝食を食べてしまい、丁寧に手をあわせた。

そういうところ、育ちなのかな。


「そんなわけで俺は絶対に純華と離婚しない。

純華が俺を嫌いだというのなら話は別だが」


そう言われて勝機が見えた気がした。


「私は矢崎くんがきら……」


速攻で彼を拒絶する言葉を口にする。

しかし、最後まで言い切らせないように彼の唇が私の唇を塞ぐ。

唇が離れ、テーブルに身を乗り出している彼を上目で睨んだ。


「……嫌いだよ」


これはさっきと違い、心からの気持ちだ。


「嘘だね」


椅子に座り直し、矢崎くんが私から視線を逸らして麦茶を飲む。


「嫌だったらもっと嫌そうな顔するし、平手の一発くらい喰らってるはずだ」


「うっ」


図星すぎてなにも言い返せなかった。

彼とのキスは嫌じゃない、むしろ――嬉しい。

けれど私には、受け入れられない理由があるわけで。


「明確に嫌いだと拒否されない限り、俺は離婚なんてしないからな。

ほら、早く食べてしまえよ、遅刻するぞ」


「ううっ」


しぶしぶ、残りのごはんを食べてしまう。

そんな私の前で、矢崎くんはなにが楽しいのかにこにこ笑って私を見ている。

彼がこんな、頑固で粘着体質だなんて知らなかった。

考えなしに昨晩、勢いで入籍してしまった自分を叱り飛ばしたい気分だ。

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