起きたらすでに矢崎くんはいなかった。
リビングへ行くと、お味噌汁のいい匂いがする。
「おはよう、もう起きたのか。
せっかくおはようのキスで起こしてやろうと思ってたのになー」
起きてきた私に気づき、彼が残念そうに笑う。
おはようのキスとやらは避けたいので、自力で起きてよかった。
「もうできるから、さっさと顔洗ってこーい」
ワイシャツを腕まくり、黒エプロン姿でキッチンに立つ矢崎くんは悔しいが絵になる。
声をかけられて、見惚れていた自分に気づいた。
「……うん」
逃げるように洗面所へ行き、顔を洗う。
起きたら旦那様が朝食を作ってくれているなんて、最高のシチュエーションだとは思う。
でも、彼は私にとって結婚してはいけない相手、で。
「準備できたんなら食べようぜ」
「……うん」
ご飯をよそい、ダイニングテーブルに着いた私の前に矢崎くんが置いてくれる。
豆腐とワカメのお味噌汁にご飯、鮭とほうれん草のおひたしに、切り干し大根の煮物。
まるで旅館の朝ごはんのようで、驚いた。
「料理、できたんだ?」
「ん?
ああ。
俺は味噌汁作って鮭焼いただけだけどな。
あとは家政婦さんの作り置き」
「……そうなんだ」
照れたように人差し指で矢崎くんが頬を掻く。
そんな彼の口からさらりと〝家政婦〟なんて出てきて、やはり私とは住む世界の違う人なのだと実感した。
「なに変な顔してるんだよ。
料理はできるぞ、一応。
でも、忙しいから家政婦さんに作り置きをお願いしているだけで」
私の反応が不満なのか、不機嫌そうに彼はご飯を口に運んだ。
「あ、いや、家政婦さんが狡いとか思ってるわけじゃないよ」
慌てて笑って取り繕う。
「それに私の朝ごはん、いつもシリアルだけだしさ。
それに比べたらお味噌汁作って鮭焼くだけでも偉いよ」
「やった、純華に褒められた」
機嫌は直ったのか、嬉しそうに口元を緩ませて矢崎くんはお味噌汁を一口飲んだ。
そういう素直で純粋なところ、もうすっかり拗れてしまった私から見れば凄く眩しかった。
「明日の土曜は仕事だっけ?」
「そう」
食事をしながらさりげなく矢崎くんが聞いてくる。
「日曜は?」
「場合によっては仕事」
ママさん社員の仕事のフォローをしている私は実質、ふたり分の仕事を抱えている状態だ。
平日だけで片付かない仕事は土日にやるしかない。
「……まだ改善しないんだな」
眼鏡の下で深刻そうに矢崎くんの眉が寄る。
「そうだね」
それになんでもないように答え、鮭を解す。
上司には現状を訴えたものの、しばらくの辛抱だからと取り合ってくれない。
人員補充で入ってきた社員が三日で辞め、人手不足なのもわかる。
なら、私がやるしかないのだ。
「そうやって頑張るとこ、純華のいいところだけど悪いところだぞ」
行儀悪く矢崎くんが箸の先で私を指す。
それを睨んでいた。
「わかってるよ」
回せる仕事はできるだけまわりに振っている。
それでも、どうにもならないのだから仕方ない。
「新居も探さなきゃだし、指環も買いに行きたいけど、当面は無理かなー」
はぁーっと諦めるようなため息が矢崎くんの口から落ちる。
「あのさ」
「なに?」
「離婚……」
「しない」
全部言い切らないうちに、被せるように彼は拒否してきた。
「どうしてそこまで、私に拘るの?」
「俺は純華が好きだからだ」
彼の答えを聞いて、私の口から重いため息が落ちていく。
「私のどこがいいの?」
「真面目で、笑うとすっごく可愛いところ」
「……は?」
即答されて、穴が開くほど矢崎くんの顔を凝視していた。
真面目は、わかる。
真面目すぎて周囲からは敬遠されがちだ。
でも、〝笑うと可愛い〟が理解できない。
それだけならまだしも、さらに〝すっごく〟がつくともう、わけがわからなかった。
「えっと……。
その眼鏡、あってる?」
もうそれ以外に私が可愛く見える要素なんて考えつかない。
「あってるが?
一週間前に新調したばかりだし。
てか純華、気づいてくれないんだもんなー」
不服そうに彼が唇を尖らせる。
「……ごめん」
なんとなく謝ったが、これは私が悪いのか?
前と同じ黒縁スクエアの眼鏡だから、どこが変わったのかわからないんだけれど。
「純華は笑うと可愛いよ。
俺はその笑顔に惚れたんだ。
きっと純華は、覚えてないだろうけど」
「はぁ」
矢崎くんは朝食を食べてしまい、丁寧に手をあわせた。
そういうところ、育ちなのかな。
「そんなわけで俺は絶対に純華と離婚しない。
純華が俺を嫌いだというのなら話は別だが」
そう言われて勝機が見えた気がした。
「私は矢崎くんがきら……」
速攻で彼を拒絶する言葉を口にする。
しかし、最後まで言い切らせないように彼の唇が私の唇を塞ぐ。
唇が離れ、テーブルに身を乗り出している彼を上目で睨んだ。
「……嫌いだよ」
これはさっきと違い、心からの気持ちだ。
「嘘だね」
椅子に座り直し、矢崎くんが私から視線を逸らして麦茶を飲む。
「嫌だったらもっと嫌そうな顔するし、平手の一発くらい喰らってるはずだ」
「うっ」
図星すぎてなにも言い返せなかった。
彼とのキスは嫌じゃない、むしろ――嬉しい。
けれど私には、受け入れられない理由があるわけで。
「明確に嫌いだと拒否されない限り、俺は離婚なんてしないからな。
ほら、早く食べてしまえよ、遅刻するぞ」
「ううっ」
しぶしぶ、残りのごはんを食べてしまう。
そんな私の前で、矢崎くんはなにが楽しいのかにこにこ笑って私を見ている。
彼がこんな、頑固で粘着体質だなんて知らなかった。
考えなしに昨晩、勢いで入籍してしまった自分を叱り飛ばしたい気分だ。