「『
「はいはい」
私の前で矢崎くんは、笑いながらハイボールを傾けている。
今日のミーティングは散々だった。
ママさん社員はマウントを取ってきたくせに具体的なアイディアはなにも言わない。
「子供がいないからわからないっていうなら、わかるように説明してくれるのが仕事ってもんでしょーが。
マウントだけ取っていい気持ちに浸るなってゆーの」
「そーだなー」
ミーティングで鬱々とした気分を晴らしたくて飲みに誘ったら矢崎くんは承知してくれ、こうやって居酒屋で飲んでいた。
しかも彼はいい感じに相槌を打つだけして、私を気持ちよく愚痴らせてくれる。
そういうところはいつも、助かっていた。
「だいたい、私だって子供関連のイベントも多いから本を読んで勉強してるし、友達に頼んで実地経験もさせてもらってるのにさー」
ぐいっとレモン酎ハイを呷り、酒臭い息を吐く。
数少ない友人のひとりには子供がいて、ときどき子守をさせてもらっている。
私は仕事の役に立ち、彼女は自由時間ができてwin-winの関係だ。
でも、それでは足りないのはわかっている。
それでも。
「朝は朝でお母さんから結婚勧められるし。
ほんと今日、最悪。
ねえ、結婚して子供がいたら、そんなに偉いの?」
テーブルの上に片腕をのせ、ぐいっと矢崎くんのほうへと身体を乗り出す。
「俺だってまだ結婚もしてないし、子供もいないからわかんないな」
困ったように笑い、彼はグラスを口に運んだ。
「まあ、ひとりで生きていくだけでも大変なのに、子供も育ててるんだから偉いのはわかるんだけどさー」
グラスを持ち上げたが空になっているのに気づき、注文端末を操作した。
「矢崎くんは?」
「じゃあ、俺もハイボール追加。
あと、唐揚げも頼んでいいか」
「了解」
自分の分と一緒に彼の分も頼む。
手持ち無沙汰になって、枝豆をちまちまと食べた。
「どっちにしろ、結婚して子供がいるのが勝ち組だとしても、私には無理なんだけどさー」
何度もいうが、地味だけならまだしも第一印象が〝怖い〟私は、男性とは縁がない。
矢崎くんが唯一の、男友達なのだ。
「そうか?
純華ってけっこう、可愛いと思うけどな」
「可愛い……」
言われない単語を彼が口にし、頬が熱くなっていく。
それを誤魔化すようにちびちびと届いたお酒を飲んだ。
「……そんなこと言うの、矢崎くんくらいだよ」
「だとしたら、他のヤツは見る目がないんだな」
ふっと薄く笑い、彼がお酒を飲む。
ますます顔が熱を持ち、意味もなく空になった枝豆のお皿に、ひとつずつ殻を箸で摘まんで戻していた。
「ちょっと確認するが」
「うん?」
グラスをテーブルに置き、急に矢崎くんが居住まいを正す。
おかげで、私の背筋も伸びていた。
「純華は結婚、したいのか?」
「あー、そうだねー」
視線が宙を滑る。
したいのかしたくないのかといえば、一度くらいしてみたい。
それに母を安心させてやりたい気持ちもある。
「……したいのは、したい。
ただ、相手が……」
「相手ならここにいるだろ?」
「……は?」
間抜けにも一音発したまま、穴があくほど矢崎くんの顔を見ていた。
ここにいるって、私の前にはなにが楽しいのかにこにこ笑っている矢崎くんしかいない。
「……もしかして、酔ってる?」
私と結婚したいとか、もうそれ以外に考えられない。
「俺がこれしきで酔うとも?」
「うっ」
今現在、矢崎くんが飲んでいるのは三杯目のハイボールだ。
彼と同じペースでレモン酎ハイを三杯飲み、へろへろになっている私を余裕で支えていつも家まで送ってくれる。
そんな彼が、酔っているなんてありえない。
「じゃあ反対に聞くけど。
矢崎くんは結婚、したいの?」
……私とじゃなく、誰かと。
と、心の中で付け加えた。
「したいな。
俺の夢は可愛い奥さんと子供は三人、あとは犬を飼うことだ。
大型犬もいいが、柴犬も捨てがたく……」
なんだか矢崎くんは真剣に犬種について悩んでいるが、問題はそこじゃない。
「〝可愛い奥さん〟って時点で、私は除外じゃない?」
何度も繰り返すが、客観的に見て私はまったく可愛くないので、彼の希望に添っているとは思えなかった。
「なにを言う。
純華は可愛いって言ってるだろ」
レンズの向こうから彼がじっと私を見据える。
その真剣な目にたじろいだ。
「だから。
私は可愛くないって」
なんとなく気まずくなって目を逸らし、お酒を一口飲む。
心臓がばくばくと速く鼓動している。
もう三杯目に入っているし、そろそろやめる頃合い。
「純華は可愛い。
俺は純華の知らない、純華の可愛いところをいっぱい知っているから、心配しなくていい」
矢崎くんの手が伸びてきて、私の手を掴む。
「だから、安心して俺と結婚しろ」
冗談だと思いたい。
しかし、眼鏡の奥の目はどこまでも真剣だ。
矢崎くんが私と結婚したい?
ありえない現実が襲ってきて、さっきから頭は混乱しっぱなしだ。
そんな私を、もうひとりの私が焚きつける。
この機会を逃したら、もう一生結婚できないぞ、と。
「ああもうっ!」
決心を固めるように、まだ半分以上残っているレモン酎ハイを一気に飲み干す。
空になったグラスを、ダン!と勢いよくテーブルに叩きつけた。
「わかった。
矢崎くんと結婚する」
じっと彼を見て、頷く。
これは別に、やけになったわけではない。
それが最善だとジャッジを下しただけだ。
「よし!」
右の口端をつり上げて笑う矢崎くんはなんだか企んでいそうで、早くも後悔しそうになった。