ぼんやりとまぶたを持ちあげると、おぼろな視界に白い天井が見える。じわじわと痛む頭を押さえて、マチルダはゆっくりと上体を持ちあげた。動いた途端、全身に鈍い痛みが走って顔をしかめる。身体が鉛のように重かった。寝台に横になっていたらしく、身体には薄いシーツがかけられている。
霞む目であたりを見回す。病室のような室内だった。寝台が整然と並んでおり、天井に吊されたランタンが優しく部屋を照らしているが、室内は仄暗い。
薬のつんとした匂いがする。薬液の入った瓶や箱、包帯が寝台そばのテーブルに置いてあった。寝ている間に誰かが手当てしてくれたみたいだ。マチルダの腕には包帯が巻かれていた。
「おい、まだ動くな」
そばから低い声が飛んできてマチルダは視線を跳ねあげた。寝台のそばにはゼアが立っている。彼は上着を脱いでいて、半袖の黒いシャツ姿だった。腕には細かい傷がいくつかあるものの、大事になる怪我はないみたいだ。
「ゼア! 無事だったのね」
よかった。一時はどうなることかと思ったが。安堵の息をつくマチルダに対し、ゼアは険しい顔を崩さない。いつも以上に眉間にしわを寄せている。
「あ。マチルダさん、起きた!」
奥の扉が開くと少女が水差しを手に姿を現した。小走りでマチルダのそばに寄り、メテは心配そうに目配せする。
「身体は大丈夫? 手当てはしたんだけど、痛いとことかない?」
「メテ……ありがとう。平気よ。その、ここは?」
マチルダは部屋の窓に視線をやる。窓の向こうは暗くなっていてなにも見えない。
メテがコップに水差しを傾けながら続けた。
「ここはアタシたちの住む村だよ。マチルダさん、南端の平地で倒れてたんだって。デュファが見つけたの。そうだ、デュファたちを呼んでくるね」
水の入ったコップをマチルダに渡し、そそくさと部屋をでていくメテ。少女を見やり、マチルダは顔をあげる。
「……そうだわ、アーグ。アーグは――」
「落ちつけ」
ゼアが慌てるマチルダを鋭く制す。
「まだ顔色が悪い」
「あ……ごめんなさい。でも、わたし」
言いかけるものの、ずきりと痛んだ頭に顔をしかめる。まだ全身に倦怠感も残っていた。
沈黙が部屋に満ちる中、中背の青年と巨躯の老人がメテの後ろから続いてやってきた。
「具合はどうだ?」
穏やかな物腰で青年――賢者デュファが言う。今は白の外套姿ではなく、黒い襟付きの服に同色のスラックスという簡素な格好をしている。彼の後ろに立ったタキザワとは対照的な優男だと改めて思う。
振り返ったゼアが胡散臭そうにデュファを睥睨していた。
「身体がよくなるまで安静にしていなさい。君は二日ほど眠っていたんだ。ここは私の家で、医院も兼ねているから心配しなくていい」
「賢者さま……いえ。わたしは」
マチルダは不意に目線をさげる。コップの水面に映る自分の顔は青白かった。目の下の隈もよりひどくなっている。脳裏によみがえるのは突き飛ばされた衝撃だった。冷たい床の感触。彼女を眼下に見おろすあの人の顔。一度にいろいろなことが起きていた。先延ばしにはできなかった。
「わたし、アーグに会ったの」
「なんだと?」
目を見張るゼアにマチルダは小さくうなずく。
「そう、なの。話さないといけないの。賢者さま、教えてください」
マチルダはデュファを見あげた。淡いランプの光に照らされて彼の姿が浮き彫りになっていた。デュファは誰もがハッとするような端正な容姿とは裏腹に、今まで通りの淡々とした対応で答える。
「そうだな。あの男のことは、君に知ってもらう必要があるだろう。では――」
「待て。勝手に話を進めるな。内容がつかめないだろう」
依然として胡乱な視線をデュファに投げるゼア。彼は眉間に寄ったしわを深くした。
「ちゃんと一から説明しろ。というか貴様はいったい誰なんだ? マチルダを助けたことには礼を言うが、貴様も妖精なのか?」
「失礼。私はデュファという」
「は? ……あの賢者の?」
「ああ、そうだ」
「ふざけるな。冗談も大概にしろ。賢者デュファは六十年前の人物だぞ」
存命しているなら齢八十を超えているはずだ――と、ゼアが相手をねめつける。
デュファは苦笑した。
「そう言われてもな。実際、そうなのだから仕方あるまい。私は長命でな。長命になってしまった、が正しいか。まあ、君が疑う理由もわかる」
「……お前、斬るぞ」
ゼアが壁に立てかけていた剣へ手を伸ばした。
メテが慌てて両手を振ると、デュファを守るように抱きついた。
「わ! 待って待って。本当なんだよ、本当にこの人は賢者デュファなの!」
「彼も我らと同様、魔封じの石の守り人として役目を果たしていたのだ」
タキザワが落ちついた態度で言うのを尻目に、ゼアは小さく鼻を鳴らした。その視線がマチルダに移る。彼女はうなずいた。
「本当だと思うの。確かに、驚きはしたけれど……」
賢者デュファは六十年前の戦いのあと隠遁したというのが通説のひとつだった。だが、まさか隠遁先が魔の森だったとは。歴史書でも記されていない事実だ。マチルダたちの知る歴史とは違う。もしかすると、異なる事実はほかにもたくさんあるのだろうか。
マチルダは改まってデュファを見た。
「教えてください。アルヴェルとは。あの人は……アーグでは、ないのですか?」
あのときデュファは確かに言っていた。アルヴェル、とその名を呼んでいたのだ。
「ああ。あの男はアルヴェル。六十年前の戦いで名の知られた、あの剣士のことだ」
――アルヴェルとはデュファやウォーデルとともにかの戦いで活躍した人物のはず。妖精との抗争中に戦死したと伝えられており、その武勇は大陸に広く知れ渡っている。タガの学問所でもアルヴェルのサーガや物語を読んだ記憶があった。
「あれの精神はアルヴェルそのもの。きっと、アーグのほうの自我はろくに残されていまい」
自我が、ない?
マチルダは愕然と目を見開き、至って冷静なデュファを見据える。
「ど、どうしてそんなことに? いったい、いつから彼は。いえ、どうして……」
動揺を隠せずマチルダは強くかぶりを振る。
「あなたはもしかして、すべてをわかっているのですか?」
「大抵の顛末はな。昔、ウォーデルからも聞き及んでいた。アルヴェルは現世によみがえっている。いずれ私の前に姿を現すだろうと」
彼の明瞭な声が、マチルダの耳に意味を伴って入ってくるのに時間がかかった。
デュファは相変わらず淡々と続ける。
「だからすぐにわかったよ。アルヴェルはアーグを傀儡にしているのだと」
室内に深い沈黙が降りた。険しい顔をしていたのだろう、デュファが同情する視線でマチルダを見つめてくる。
「すまない。簡単に理解はできないだろうが事実なのだ。私は彼を倒す使命がある。約束したのだ、ウォーデルと」
「祖父と……約束を?」
頭の中が混乱していた。いつからアーグはアルヴェルになっていたのか。かつてマチルダが愛したアーグは、彼女がずっと接してきたアーグは、すでに彼自身ではなかったというのか?
いったい、いつから。三年前のあの日から、すでにそうだったのか?
では、本物のアーグは今どこにいる?
両手がにわかに震えてくる。血の気が引く思いだった。それを察した様子で、デュファがふと表情を曇らせる。
「憶測でしかないが、アーグの意識もかつては確かにあったはずだ。アルヴェルといえど最初から彼を支配できたわけじゃない。始めこそ、奥底にひそむ小さな我でしかなかったのだ。アーグが成長するにつれてアルヴェルの意識も覚醒していった。そんなところだ」
「……アルヴェルは死んだんだろ」
ゼアがデュファに詰め寄って問う。険しい顔で賢者を睨む彼は、一瞬だけマチルダを見ると苦々しく声をひそめた。
「死んだ人間が生き返るはずはない」
「ああ、そうだ。殺したよ、戦いのときに私がね。君たちが知る歴史とはきっと異なる事実だろうが、ひとつひとつ……話していこう」
デュファは重い息を吐いて語る。
六十年前の戦い。妖精と人間の間で起きた戦争。
当時、ふたつの種族は大陸を南北に別ち、不可侵条約を結んでいた。北が人間の、南が妖精の領地として分かれていたのだ。それにより長らく和平が保たれていたものの、六十年前に呆気なくその平和は破られた。妖精が人間の許容範囲を超える濃度の魔力を、人間の領地に放出したのが原因だ。それにより数多くの人間が拒絶反応を起こした。苦しみの果てに魔物へと変貌していく病が領土で流行した。
だが妖精が魔力を放ったのにはそもそもの原因がある。
すべては、和平を実現させようと妖精王が送った使者を、人間側が殺したのが理由である。
それ以前から人間側は、不可侵条約を結んでいながら妖精を捕まえては秘密裏に実験動物として扱っていたという。捕まった妖精の末路は悲惨なものだったという話だ。
デュファとウォーデルは人間でありながら、その真実を知ったことから妖精側について戦う決意をした。だがアルヴェルは違った。かつて魔力を放出し、病を蔓延させた妖精――そんな妖精に報いるために兵を募り、妖精側に侵略戦争を仕かけたのだ。それが、六十年前の戦いの全容だった。
かつては友であり、ともに妖精王から赤石を賜った仲でもあったアルヴェル。
彼を殺す覚悟を決めたデュファとウォーデル。
そしてふたりは友を手にかけるに至った。
「わたしたちの知る歴史とはだいぶ違うのですね」
「ああ。戦いはそれで終結した。結局、痛み分けという形でね。そして私たちは魔力を赤石に封じた。だが、あのときの私はウォーデルの行動にまで気が回らなかった」
「祖父がなにをしたのですか?」
尋ねるマチルダの声は掠れていた。デュファは数秒、押し黙った。ためらいの間だ。やがて彼はうなずくと窓の外に視線を流す。そこに、過去のなにかが映しだされているように。
「ウォーデルは戦いのあと、アルヴェルを蘇生させようとしたんだ。私たちが魔力を石に封じる前のことだ。無論、魔力を使ってな。失敗したよ。当たり前だ。そんなことは妖精王にだってできない。だが彼の魔力は司祭ゆえ強く、結果的にアルヴェルの精神の断片だけを、この世に留めてしまったんだ。ウォーデルは確かにそう言っていたよ」
アルヴェルの断片が今のアーグに潜み、乗っ取り、さまざまな悪事を成してきたというわけか。デュファやタキザワはそれを倒すため、魔封じの石を守りながら待ってきた、と。だが、わからない。なぜアルヴェルの意識はアーグを選んだのか。どうしてアーグが選ばれなければならなかったのか?
マチルダはふと、目を閉じる。
「……リサ?」
アーグが呆然とその名をつぶやいたのは記憶に新しい。
「彼は、わたしを見て確かに言ったのです。リサ、と。リサとは――」
マチルダは顔をあげるとゼアのほうを見た。ゼアは少し驚いた様子で目を見張ったが、やがて眉根を寄せてうなずいた。
「俺たちの祖母の名と同じだ。これは偶然か?」
「偶然では……ないだろうな。デュリストの末裔よ」
「俺のことも知っているのか?」
「ああ。きっとアルヴェルは、血族を選んで乗っ取ったのだろうな。血族ならばその波長も近いからね。肉体を取りこみやすいというわけだ。アルヴェルがアーグを選んだのは、そういった理由もあるだろう」
彼は口を閉ざした。それ以上は続けず、ただ沈黙する。
ゼアが苛立ったように舌打ちを漏らす。マチルダはじっと若き賢者の顔を見やった。相変わらず淡々とした表情の中に、感情の機微を読み取ることはできなかった。
彼は首を振る。
「私たちはかつて友人だった。だが、今の彼はもうアルヴェルでもないだろう。力への衝動、そのものだ。それだけが残っている。だから迷っている暇はない」
窓の向こうからはフクロウの鳴き声が低く聞こえてくる。
デュファは改まった態度でマチルダと、周囲に立つ一同を見やる。
「私はアーグのもとへ行かねばならない。このときがくるのは理解していた。いや、この日がくるのを待っていたといってもよかった。二十年前かな。ウォーデルがこの村を訪れたのは。それから、私は奴が現れるのを待ち続けていたんだ」
郷愁に耽るようにデュファはどこか遠くを見つめる。
かつてウォーデルは言ったという。
――彼は今もどこかで僕たちを見ている。お願いします。あなたにしか頼めないのです。僕の過ちを正してください。僕のつくってしまった害悪を取り除いてほしい。魔力を封じてまで僕たちが成そうとした平和を、守ってほしいのです。
――本当にごめんなさい。すべては僕が弱かったせいです。
ウォーデルは必死に訴え、昔、妖精王から賜った赤石をデュファに託した。デュファは彼の願いを叶えるため長らく待ってきたのだ。魔封じの石の守り人をしながら。奴と再び決着をつけるために。
「奴をとめねばなりません」
メテとともに沈黙を守っていたタキザワが重い口を開く。彼は鷹のごとく鋭い眼光に力をこめて、デュファを見据えていた。
「このままにしておけば、黒鴉が行っていた殺戮の比ではなくなるだろう。それに衝動のまま魔封じの石の封印を解かれてしまうやもしれん。そうなれば、またあの『病』が蔓延する可能性も高い」
「ええ。これは、私の責。あの男は私に任せてください」
巨躯の老人は気づかうように首を振る。
「あなたがすべて背負う必要はない。石を封じたあのころから我らは運命共同体なのだからな。ウォーデル殿もそれは同じだ」
タキザワはマチルダとゼアを見やる。
「彼らも、我らの身の上はすでに知っておられる」
「そうか」
「賢者さま。アーグに会うのなら、どうかわたしもお連れください。このままじっとはしていられません」
彼女はこぶしを握りしめる。
「ご、ごめんなさい。出過ぎた真似だというのはわかっています。でも、彼はわたしの大切な人で。このままにはできなくって……」
「わかっている、マチルダ」
唇を噛みしめるマチルダに視線を移し、デュファはうなずく。
アーグは優しい人だった。春の木漏れ日のごとく、彼女を温かく包み込んでくれる存在であり続けた。だが、黒鴉の男として再会した彼はまるで別人――いや、アルヴェルの意識に乗っ取られていたわけだ。あの冷たい眼差しを思いだすだけで震えそうになる。アーグはあんな目をしない。あんな声で話さない。それが、彼の自我が支配されているすべての証左だった。
なにも気づけなかった。
このままにはできない。このまま放っておくなど、できるはずもない。
だからもう一度、会うのだ。
会ってどうなるかはわからない。なにも方策はない。それでも――
「……よく、似ているよ」
ポツリ、と静かな声がした。予期せぬつぶやきにマチルダが顔をあげると、デュファが慎ましく微笑むのがわかった。彼はそっとマチルダの頭に手を置く。何度か優しく叩いてみせた。
撫でられている、と理解した彼女は、思わぬ事態に目を丸くする。
「え、ええと……?」
頬がみるみるうちに熱を持った。早くに亡くなった両親にさえしてもらった記憶がないことだ。どうしていいかわからず困惑する彼女に、デュファがどこか懐かしんで言うのだった。
「君は本当に真っすぐ育ったのだな。ウォーデルによく似ているよ」