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第12話

 デュファについて歩いていくとやがて樹々の奥に大きな建物が見えてきた。

 森に点在する廃墟と同様、石造りの古びた建築物だ。外壁の至る箇所が抉れ、ヒビが入っており、年季を感じさせる。窓はひとつもなかった。なんだか閉鎖的な建物だ。

 デュファはためらいもなくそんな大廃墟の中に入っていく。マチルダは一抹の不安を胸に抱えたまま、なにも言わずに彼のあとを続いた。ここで変に騒いでも仕方ない。彼に倣って廃墟の入口を通りすぎる。

 内部も古い石造りの壁が剥きだしだった。森で唯一の光源だった月の明かりがなくなり、さらにあたりは暗く、しんと静まり返っている。

 数歩ほど歩いてデュファがふと立ちどまった。


「人の気配はないな。だが、かすかに魔力の残滓を感じる」

「魔力の残滓……もしかして、赤石がここに!?」

「……知っているのかね? 赤石を、いや、魔封じの石のことを」

「知っているというより、もともとわたしが持っていたものなんです。昔、アーグからもらった大切なもので」

「アーグだと? それは、もしかすると……あの少年の名前か?」


 あの少年? マチルダは首をかしげる。その様子にデュファはうなずき、淡々と続けた。


「昔、この森の村に少年が現れてな。その少年が魔封じの石を村から奪い去った。それ以後、私たちは石を探し続けている」


 その言葉はマチルダの脳裏になにかをよぎらせた。だが、今はそれどころではないと無理やり頭を切り替える。


「あれは取り戻す必要がある。君の連れも心配だがこの発見は見逃せないな。もしかしたら石がここにあるのかもしれない」

「ということは、あの男も近くにいるということ……」


 思わぬ展開にマチルダは息をのみこんだ。先ほどの賊はゼアたちも餌にすると言っていた。であれば彼らもここにいるかもしれない。なによりデュファがいなければマチルダにはなにもできない。動きようがない。今はほかに選択肢などなかった。

 ふたりは内部を進んでいく。廊下には上へ続く階段や枝分かれした道などが多かったが、魔力を辿るデュファは迷う様子を見せなかった。廊下を左に折れた先はホールとなっており、その端に地下へ続く階段がある。デュファは例によって淡々と地下へ進んでいった。

 階段を下った先にはひとつ部屋があった。扉は開いている。なにか、鈍く軋むような音が聞こえてきた。

 漂ってきたのは濃厚な血の臭い。

 部屋の中は折り重なる人で密になっていた。周辺には人や動物の肉と臓腑があちこちに散らばっている。壁や床を染める鮮血が斑な模様を描いていた。

 部屋の中心には青年がひとり立っていた。彼はちぎれた人の腕らしきものを持ち、ぶらりとさげている。足もとにはまるで大勢の鴉に食われたかのごとく、ぐちゃりとした肉片が転がっていた。

 このありさまは。……あの時と同じ光景だ。まるで悪魔の館のエントランスを模倣したようなありさま。

 違うのは、そこに食べている『本人』がいることだ。

 男は外套のフードを肩におろしている。暗がりの中で金色の両眼だけが光っていた。口周りや頬に飛ぶ鮮血。赤茶色の髪にも血がこびりついていた。


「――リサ?」


 男がどこか呆然としたようにマチルダを見て囁いた。それはマチルダも同じで、とっさに声がでてこない。


「……あなた、は……?」


 喉の奥から絞りだした声音はひどく掠れていた。

 時がとまったかのようだった。両者は互いを見やったまま動かない。動けなかった。しばらくして男が持っていた腕を放りだす。腕は音を立てて血の池に転がった。それにあわせてやっとマチルダはハッとする。

 信じられなかった。だが。その姿はいなくなってしまった彼のそれと間違いなく一致する。金色の瞳も、赤茶色の髪も。鋭利なその顔立ちも。スラっとした長身も。

 まさか。まさか――


「……アーグ、なの?」


 男がその声に呼応して目線をあげる。

 視線がかちあった。

 ああ、まさか。


「アーグ、どうして……?」


 すべてを認識した途端、マチルダの瞳が涙で滲んでいった。視界が潤んでぼやけていく。

 胸の鼓動が早まってもはや抑えることができない。頬がじん、と熱を持った。

 ああ、彼は。ずっと捜していた。大切なわたしの……

 ずっと、追い求めてきたアーグが目の前にいる。

 まさか、黒鴉の男の正体だったなんて。いや、そんなことはもはやどうでもいい。

 この凄惨な光景はなんだ。なんなのだ。この光景を作りだしたのがアーグだというのか?

 マチルダの脳は目前の現実を受け入れることができない。喉がカラカラに渇き、吐き気がした。声がこみあげる激情に覆われて音にならなかった。

 背を這うのは怖れにも似たおぞましさ、そして、相反する愛おしさ。

 ずっと、待っていた。捜していた。会いたかった。アーグを想わない日はなかった。


「アーグ……アーグ」


 無意識のうち彼のそばに寄っていたマチルダは、突然の衝撃に地面へ叩きつけられた。鈍い痛みが身体に走って呼吸がとまる。アーグが突き飛ばしたのだ、と頭が理解したとき、眼下に彼女を見おろすその瞳の、冷然な光に身が竦んだ。


「なんで、アーグ。どうして……」


 アーグ。やっと、やっと会えたのに。なぜ。どうして。マチルダは混乱する思考を制御できず、呆然と座りこむしかない。

 するとマチルダの前にデュファが立ち塞がるのだった。


「赤い髪。金色の瞳。君があのときの少年で間違いないな? あのときから少しばかり時が経ったが、私を覚えているかね?」

「ふん。賢者デュファだろう。以前とそう変わらないように見える」


 アーグがデュファを睥睨して吐き捨てる。


「変わらないさ。私たちはずっと君を捜していたよ。いや、魔封じの石を、が正しいか。今も持っているのだろう。返してもらおうか」

「無理な話だ。とっとと失せろ」


 にべもなく唇をゆがめたアーグに対し、デュファは至って沈毅な対応で続ける。


「君の考えはだいたい理解できるよ。魔封じの石の封印を解くために、そうやって微細の魔力を得て、溜めているのだろう。すべては封印を解く力をつけるためだ。なにせ、その石にはかの大陸の魔力を封じているわけだ。その力は強大なもの。それに封印は私とウォーデルとで行っている。生半可な力で解くことはできないからな」

「くく、そうだ。で? どうする。ここで無理やり石を奪うのか?」


 アーグはおかしそうに笑いながら挑発するように目を細めた。

 デュファは淡々と言う。


「石は返してもらう。そして君は、あの『君』で間違いないのだな?」


 その物言いにマチルダは小さな引っかかりを覚えた。彼女はよろよろと立ちあがると、アーグに近づこうと足を踏みだした。その動きをデュファが鋭い声で制す。


「退け、マチルダ!」

「あ……」


 彼女の肩が震え、マチルダは立ちどまった。改めてアーグを見やる。


 アーグ。……アーグ?


 かつて、朗らかに輝いていたはずの彼の瞳。今は暗く、泥水のごとく濁りきっていることに気づいた。その奥にはぎらつくような獰猛な光が垣間見える。

 よぎったのは、違和感だった。

 布に染みこむ水のように、それはマチルダの心を急速に変えていく。

 彼は、本当に、アーグなのか?


 ――違う。なにかが違うと思った。


「う、そ……?」


 頭上から足下までを絶望にも似た感覚が通りすぎていく。

 目の前が凍りつき、呼吸がとまりそうになる。


「アーグ、じゃない……?」


 そんなはずはない。そんなことはあり得ない。けれど。


「違う、アーグじゃない。あなたは――」

「なにを言っているんだ?」


 男は冷ややかに笑う。


「俺はアーグだぞ」

「違う、あなたは」


 身体が震え始めた。めまいがする。背を這うのが怖れなのかどうかも判然としない。数歩、後ろにさがると踵になにかが当たった。とっさに振り返る。目を開いたまま絶命したそれが彼女を見あげていた。マチルダの口の端から悲鳴が漏れる。


「ウォーデルの術はやはり失敗だったようだな」


 デュファは依然として静かに言う。


「なあ、そうだろう。アルヴェル」


 マチルダは霞む意識の中でそばに立つ若き賢者を見やった。――アルヴェル? 六十年前の大戦で活躍した三英雄のひとりの名前だ。彼が、アルヴェル? 馬鹿な。その容姿はアーグその人に違いない。いったい、なにがどうなっている?

 デュファはマチルダの視線をあえて無視するようにじっとアーグを見据えている。


「アルヴェルよ。私はウォーデルの過ちを、彼の代わりに果たすためここにいる。過ち……それは君が今、この場に存在する現実だ。君が現れたとき、私はウォーデルの代わりに君を倒すと、そう約束したんだ」

「ほう、なんだと?」

「こんなことはもはや誰も望んでいない。戦いは終わった。妖精はすでに異次元へと消えた。魔力も今では昔の遺物と化している。そんな力を手にしたって無意味なんだ。リサは、もう戻ってはこないのだから」

「これ以上話をするつもりはない」


 アーグは外套を翻すと手でなにかをなぞる動作をした。すると、空中から炎にも似た光が出現し、彼の手から勢いよくほとばしった。その閃光は一矢となってデュファへと飛来する。彼は軽い身のこなしでその一撃を躱していた。一矢は壁に激突すると轟音とともに床が揺れる。

 その揺れに彼女は膝をついた。


 なんだ。これは――まさか、これは魔法?


 アーグは鼻を鳴らしつつ、衝撃の隙をついて素早く部屋をでていた。階段を跳躍する彼の後ろ姿が目に入る。


「待って、アーグ……!」

「マチルダ、追うのは危険だ! やめなさい!」

「でも! ――ごめんなさいッ!」


 マチルダはデュファの声を振り切り、アーグのあとを追いかけた。階段をのぼってホールに飛びだす。ここで彼を逃がすわけにはいかなかった。デュファは彼をアルヴェルだと言った。ではアーグはどこにいるというのだ――?

 ホールから廊下にでる。上階へ渡るアーグの外套の裾が垣間見えた。迷うことなくマチルダは追随する。喉が切れたように痛む。構っている暇はない。

 階段をのぼった先は屋上になっていた。


「アーグ!」


 抉れた石造りの床を蹴り、マチルダは息を切らしながら暗闇に目を凝らす。

 冴え冴えとした月が天に昇っている。森の樹々がさわさわと葉擦れの音を鳴らしていた。屋上の奥にはアーグの姿があり、彼はマチルダを見て一瞬だけ顔をゆがめた。


「ちっ……」


 舌打ちを漏らすと彼はためらいなく屋上を飛びおりていく。慌てて駆け寄ったマチルダの眼下には、すでに彼の姿は消えていた。万一この高さで地面に落ちれば無傷では済まないはずだ。

 アーグの身体能力が常人のそれを超えているのは確実だった。

 後ろから駆けてくる足音がする。デュファが追ってきたのだろう。

 マチルダは息をのみ、決意を固めるように両手を握る。

 屋上から張りだした樹の枝に飛び移ろうと一歩を踏みだした。




 それからも、立ち止まるわけにはいかなかった。

 ただ無我夢中だった。

 乱れる呼吸に肺と喉が痛む。疲労で手足が軋んでいた。樹に飛び移った時に捻ってしまったのか、足首がじくじくと熱を帯びている。どうやって地面に降りたったのか記憶も曖昧で、頭が熱に浮かれたようにぼんやりする。

 マチルダは歯をかみしめた。

 枝葉に引っかかって破れた薄布を気にもせず、ただ森をひた走っていた。木の根に何度も躓きつつも、すでに姿を消したアーグを追って。

 森は相変わらず道らしい道はほぼない。あるのは地面が禿げてできた通り道の痕跡のみ。痕跡は雑草や樹の根、石ころが無数に転がるあい路となっている。

 どのくらい走ったのか判然としなかった。マチルダはふと立ちどまった。ほかの樹々を圧倒する、丈夫な大樹が前方にそびえているのが見える。

 大樹の幹には鉈で横薙ぎしたような深い傷が刻まれていた。まるで人為的な、なにかの印にも見えた。疑問には思ったが、マチルダは構わず走り始めた。

 そのとき。

 ――視界が、唐突に開けたのだ。


「え!?」


 目前には、短い雑草が絨毯のごとく生え渡った平原が広がっていた。樹々はなく、夜の空が重くのしかかるように垂れこめている。

 ほのかに潮の匂いがしてマチルダは目を見開いた。

 平原の先には『青』が広がっていた。平地は途中から唐突に切れていて、その下方から波打ちの音が静かに響いてくる。なんの前触れもなく、まるで刃物かなにかで切断されたように森はそこで終わっていた。


 海だ。大陸の、果て――


 いや、そんなわけがない。あの大廃墟から数十分ほど走ってきたくらいだ。こんなに早く大陸の南端に到着するわけがない。だが、今マチルダがその南端にいるのは事実だった。

 魔の森といわれる所以である。もしかするとこの森には妙な力場でも働いているのかもしれなかった。彼女はそう無理やり納得させる。それより、アーグは……アーグを追わねば。

 マチルダはよろよろとその場に崩れた。全身が痛い。深い疲労で意識が霞んでいく。


「アーグ……」


 弱々しく名を呼ぶ。答える声はない。

 平原に倒れこんだマチルダはそのまま目を閉じるのだった。

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