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第6話

 ベチレはごく小さな町で、北に広がる森もたいして深くはないという。

 中天よりやや西に傾いた太陽が森の樹々を輝かせている。瑞々しい緑の香りにどこからか聞こえる小鳥のさえずりは、もう季節は春を過ぎていると知らせてくれる。

 こんな時分でなければ、ゆっくりと散歩を楽しむにはうってつけの場所だ。

 森の地面にはくっきりと道ができており歩くのに不自由はなかった。マチルダの靴底が赤土を踏みしめるくぐもった音だけが響く。酒場の主人が言ったとおり、人の気配はまったくなかった。

 彼女の前を行くのはゼアと老人タキザワだ。タキザワは「娘が囚われているかもしれぬ」とマチルダたちとの同行を願いでたのだ。渋い顔をしたゼアに対し、マチルダは悲壮に頼みこんでくる彼を無下にはできず、こうしてともに森を歩いている。

 タキザワは大きな体躯をした老人だった。鷹のごとく鋭い眼光が印象的である。黒々とした長髪を頭頂部で結いあげており、口もとにもたっぷりと髭を生やしていた。前合わせの着物に帯を締めた大陸では見慣れぬ服装をしていて、どこか遠い国の異邦人にも見える。先ほどは泣いていたが、傍から見れば佇まいは堂々としている。どこか人間離れした雰囲気があった。

 どこが、と言われると言葉につまるのだが。

 彼女は前を行く彼らの背越しに森の向こうを見やる。のどかに続く森だが、黒鴉が潜んでいるかもしれないのだ。じりじりと胸に緊張が走る。少なくともマチルダが戦って勝てる相手ではない。あの黒鴉の男に限っていえば戦闘の実力は相当なものだ。剣の腕に長けるゼアでさえ手に余っていたのだから。

 それでも逃げるわけにはいかない。マチルダは気を引き締めて前を見据えた。

 やがて開けた平地にでると、そこには石造りの洋館が建っていた。館、とあって一見すると大きく立派な外観に見えたが、よく見るとひどく年季が入っているのがわかった。外壁には無数のひび割れが生じている。いたるところが経年劣化によって黒ずんで煤け、館全体がつるや苔に覆われていた。窓硝子は割れている。とうの昔に打ち捨てられ、朽ちるのを待つだけの侘しさを感じた。

 ゼア、タキザワを先頭に警戒しつつ館の扉へ向かう。剣の柄に手を当てながら、ゼアはそっと扉の取っ手に手をかけて静かに押し開けた。

 鈍く軋んだ開閉音が夕方の静寂に木霊する。錆びた鉄製の大扉の向こうへと、三人は足を踏み入れた。


 ――濃厚な血の臭いがした。


 エントランスホールのあちこちに大勢の人が倒れている。いや、それはかつて人……だったものだ。その四肢はもげてバラバラになっており、床に散らばっている。まるで食い荒らされたように腹から臓腑が飛びでていた。首だけになったものや、目玉をくり抜かれているものもあった。おびただしい血が床を絨毯のように染めている。

 死体は腐敗が進んでいるようだ。血の臭いに混じり、腐臭がエントランスホールに充満している。

 数え切れないほどの死骸がマチルダらの目前に無残な姿を晒していた。

 急激にこみあげる吐き気。マチルダは激しく咳こみ、その場に膝をつきそうになるのをなんとか堪えた。

 これは。この状態はいったい――


「な……に? これは……」


 となりに立ったゼアも眉をひそめている。

 これは、ベチレで行方不明になっている者たちなのだろうか。その残忍さに狂気を感じてマチルダは身震いした。なんとかゼアのほうを見て、おそるおそる口を開く。


「これは、黒鴉がやったの……?」

「わからん。だが、可能性はあるだろう」

「いったん、でましょう。このことは……町に報告したほうがいいわ」


 ゼアがうなずき、マチルダは館をでようと踵を返す。

 そのとき、タキザワが一歩ほど足を踏みだした。


「待たれよ。なにか聞こえる」

「――え、声?」


 マチルダはハッとして耳を澄ます。静寂に満ちた館内の遠くから、確かに声らしきものが聞こえてくる。


「確かに聞こえるな」

「生き残りがいるってこと……!?」


 もしかしたら助けることができるかもしれない。


「……行きましょう。助けを待ってるかもしれないわ」

「わかった。俺が先行する。ついてこい」


 三人は床に散らばる死骸を避け、エントランスホールの奥へ進んでいく。

 奥には上階へと続く螺旋階段があった。館は吹き抜けになっていて見通しがよく、上階には大きな窓がひとつ設えてあった。大窓からは森の樹々と赤く染まった陽光が静かに差しこんでいる。光源はそれだけで館内は薄暗い。エントランスの天井には豪奢なシャンデリアが吊されているものの、すでに役目を果たしていなかった。長年、蓄積された綿埃に覆われている。全体的に埃っぽく空気は淀んでいた。

 冷え冷えとした空調が肌を刺す。

 エントランスホールの左右にはいくつか扉があり、三人はひとつひとつ近づいて耳を澄ましていく。三つ目に差し掛かったとき、声がひときわ大きくなったのがわかった。


「ここのようだ!」


 タキザワが扉を開け放つ。……扉の先は小部屋になっていた。小部屋の右半分が牢屋になっている。その鉄格子の中に複数の影が見えたとき、タキザワが目を見開いて吠えた。


「メテ!」


 牢の中では少女と男たちが揉みあいになっていた。組み敷かれた少女に男のひとりが今にも覆いかぶさろうとしている。腰に得物をさげ、革鎧を身につけた簡単な武装姿は賊然としたそれだった。もうひとりの男のほうは、侵入してきたタキザワに気づいて目を剥いた。


「なんだぁお前ら!? 『餌』になりにきたのか?」

「退けい!」


 タキザワは立っていた男を払いのけ、牢の中の男を力ずくで少女から引き剥がした。少女が老人へ飛ぶように抱きつく。


「タキザワ……! きてくれたの!」

「おい、ジジイ! 邪魔すんじゃねえや。……って、おお?」


 男たちはゼアに続いて部屋に入ったマチルダに目を留めた途端、ニタリといやらしい笑みを浮かべた。


「おほ、上玉じゃねえか。こりゃ俺たちは運がいいな。ガキよりよっぽど楽しめそうだぞ」


 舐めるような視線がマチルダに絡みついてくる。男のひとりの股間が見る間に盛りあがっていた。わきあがる嫌悪感に彼女は唇を噛む。


「理由は知らねえがここにきたのが運の尽きだ! はは、その女を寄こしな。せいぜい可愛がってやるよぉ」


 男のひとりが手招きしてくる。

 ゼアは剣の柄に手を当てたまま男たちを睨み、小さく舌打ちした。


「待ってください。あなたたちは黒鴉の手の者ですか? 行方不明事件の犯人はあなたたちなのですか?」

「あ~?」


 マチルダの問いに男たちの顔から笑みが消える。忌々しげに唇をゆがめた。


「そうだと言ったらどうする。俺らとやるってのか?」

「黒鴉の男はどこにいるのです!? わたしはその男を捜しているのです!」


 マチルダは強く言い捨てる。男たちは再びせせら笑った。


「俺らにゃ知らねえな。下っ端には関係ねえし。おい、男のほうはさっさと始末しちまうぞ」

「……さがっていろ」


 ゼアが声を忍ばせる。男たちにもその抵抗の意思が伝わったようだ。

 一切のためらいなく、男ふたりは勢いよく襲いかかってきた。ゼアは真っすぐに迫りくる男の棍棒を剣の峰で受けとめていた。弾き返し、その隙を突いて刃を薙ぐ。裂いた腹から鮮血が飛び散る。くぐもったうめき声をあげる男。ゼアは思いきり男の腹を蹴りあげた。


「ぐあ……ッ」


 男は牢の鉄格子に思いきり激突する。鉄格子がひしゃげる鈍い音がした。部屋の隅でタキザワに守られた少女が短い悲鳴をあげる。

 間髪を入れずもうひとりの男が肉薄した。斧が鋭い風圧とともにゼアの脳天めがけて振りおろされる。上段からの攻撃にも彼はひるまず、斧を後ろにステップして回避。同時に剣の斬撃を刀身に滑らせるよう流しうけた。

 後の先をとる――ゼアの剣は男の脇腹を横に裂く。棍棒を持ち直していたもうひとりの肩を続けて縦に斬り捨てた。

 男たちはうめき声をあげながら床にぐったりと倒れ伏した。

 もとの静寂が部屋に戻ってくる。

 途端、不意に拍手が室内にこだました。


「――お見事。ずいぶんと派手にやってくれたわね?」


 部屋によく通る声が高々と響き渡る。マチルダとゼアは弾かれたように振り返った。

 扉の前には、見知らぬ細い影が立っていた。

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