早朝の空気は冷たい。白み始めた空の下、乾いた風がマチルダの長い髪を撫でていく。赤土のつんとした匂いがほのかに鼻を掠める中で、タガの町はまだ深く寝静まっていた。
人通りはほぼない。
マチルダはそっと控えめに歩を進める。肩に提げた鞄には必要最低限の持ち物を詰めこんでいた。その中には護身用に短刀も入れてある。黒鴉の男と対峙するには心もとないが、ないよりはマシだろう。
羽織った薄布をかけ直し、向かうのは町の出入り口だ。土を踏みしめる音だけが響く。きっと、のちに大騒ぎとなるだろう。ウォーデルの孫娘が失踪したと。ゼアは捜索隊を結成し、血眼になってマチルダを捜すはずだ。迷惑をかけるのはわかっていた。身勝手な行動なのだと、痛いほど理解している。
だが、赤石を奪われてみて気づいたのだ。赤石自体が大事なわけではないのだと。アーグがくれた思い出そのものだから、マチルダにとってかけがえのないものになっていたのだと。今となってはふたりをつなぐ、唯一の証であると改めて気づいた。
かつては『付き人』としてマチルダのそばにいてくれたアーグ。
大人びた優しい顔は今も脳裏にはっきりと浮かんでくる。ウォーデルの孫娘として期待と違和感に苛まれていたとき、『お前はお前だ』と言ってくれた、その力強い言葉も。
彼には心を救われ続けてきた。今までもこれからも、彼は希望だ。
赤石を取り戻すだけではない。アーグに会いたい――会って話をしたい。
叶うならもう一度、その胸の中に身を寄せたい。
三年間、抑え続けてきた本当の気持ちだ。
僥倖だとマチルダは思った。世界神はきっと、きっかけを与えてくれたのだ。赤石を奪われたことで、彼の影にすがって生きる生活から脱却すべきだと告げているのだ。すがるのではなく追い求めよ、と。
それは都合のいい解釈にすぎないだろうか?
マチルダは胸に手を当て、内心で強くうなずいた。
町の出入り口を示すアーチ型の門が目に入ったところだった。
「――え? ど、どうして?」
マチルダは驚いて目を見開いた。門の壁に寄りかかって佇む人影があったのだ。
無造作な黒い髪が風に揺れている。しっかりと着こんだ戦闘服に、腰に帯びた剣。ゼアは鋭い瞳でマチルダを一瞥し、やれやれとため息をついた。
「お前のことだからな。抜けだすくらいはするだろうと踏んだ」
「あ……ええと」
「何年、一緒だと思ってる?」
なにもかもお見通しというわけだ。マチルダは気まずさに視線をさ迷わせる。なんと言っていいのかわからず、両者の間に沈黙が流れた。昨日の今日だ。きっと怒っているに違いないだろう。ここにいるのもマチルダを止めにきたためかもしれなかった。
「ごめんなさい。勝手にでていこうとして。でも、でもね。わたしは」
「別に」
ゼアは再び息をつくと目を細める。いつもの素っ気ない様子に変わりはないが、昨夜の憤りは薄れているようにも見えてマチルダは拍子抜けした。
帯剣の柄に手をかけ、ゼアは首を振る。
「俺はお前の『付き人』だ。その役目を放棄するわけにはいかんだろう」
「え? もしかして……」
「俺はアーグを赦したわけじゃない。お前の気持ちだって、理解したわけじゃないからな」
「ゼア……ありがとう」
ふん、とそっぽを向くゼア。それに苦笑するマチルダはふと振り返り、町並みを眺めた。夜明けの空に覆われたタガの町は、遠く朝靄に霞んで見えた。
ずっと暮らしてきた大切な町だ。人生そのものと言っていいほどマチルダに多くの思い出を紡いできた場所。その町並みに背を向けると、彼女は一歩を踏みだした。