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第3話

 窓の向こうに広がる夜空には満月がポツリと浮かんでいる。光源はそれだけで、あたりはとっぷりと夜の闇に沈んでいた。

 蝋燭を灯したランタンを手にマチルダは廊下をとぼとぼと歩いている。身体が鉛のように重い。さすがに疲労しているのだろう。怪我人の手当てに追われ、気づけば深夜を過ぎていたのだから。夜の冷気に薄布を纏った肩をさすりながら、彼女は自室へと戻る途中だった。

 修道寮の回廊には彼女以外に歩く人はおらず、窓の向こうから風の吹く掠れた音が聞こえてくるだけだ。

 怪我人は大勢いた。マチルダは救護班の修道士たちと協力して治療に当たっていた。火傷を負った者、賊に腕を斬られた者、痛々しい容体に胸が痛んだ。生きているだけまだよかった。

 あの騒動で死者が数人でたのだ。

 突如として現れた黒鴉は、それまであったタガの平和を壊していった。

 不穏な感覚が胸をよぎっていく。

 黒鴉。聞き覚えのある名だ。今、大陸で暗躍しているという者たちだとか。賊をあちこちに従えているとか。知っている情報はそれくらいだ。中東の町に現れたのは今回が初めてではないだろうか。

 修道寮の回廊を曲がったところに人影があった。廊下の壁にもたれかかって立っている。目を凝らしたマチルダに低い声がかかった。


「ずっと働いていたのか」


 暗がりからランタンの灯りに照らされたのはゼアの姿だ。彼は腕を組み、マチルダに相変わらずの仏頂面で目配せをする。マチルダは立ちどまると困り笑いを浮かべる。


「ええ、まあ……」


 両者の間に重い沈黙が降りた。ランタンの灯が不規則に揺れてふたりの影を震わせる。気まずくなったマチルダはなにか話題がないかと考え、うつむいていた顔をあげた。


「あ、ゼアは怪我、大丈夫なの? ちゃんと手当てしてもらった?」

「別に」


 素っ気ない返答である。慣れたものではあるが、マチルダは苦笑するしかない。黒鴉の男と対峙し戦ったのだ。傷は浅くないはずだろうに。やせ我慢しているふうにも見えないが、本当に大丈夫なのだろうか?

 再び沈黙が静寂となってその場を満たした。無意識のうちにペンダントを握りしめようとしてマチルダの指が空を切る。そうだ。もう、赤石はないのだ。落胆にも似た感情に彼女は深く息を吐きだした。心細い気分だ。アーグに贈られてからずっと肌身離さずにいた宝物。それがないというのは。

 先ほどの騒動が頭を巡る。赤石を奪い、去った黒鴉の男。その漆黒の背中を。


「どうして……黒鴉の男は赤石を奪ったのかしら」


 それに、どうしてマチルダが赤石を持っていると知っていたのか。面識などあるはずもなかった。賊を従える、あんな……冷然とした雰囲気を纏った男など知る由もない。

 だが――


「取り返さなきゃ」

「……なんだと?」


 ゼアの眼光が鋭いものに変わる。マチルダはそれに構わず、強くかぶりを振った。


「あれは大切なものなの。このままにはできないわ」

「……それは、アーグにもらったものだからか?」


 ゼアは回廊の壁から背を離し、真っすぐにマチルダと対峙する。ランタンの灯りに浮き彫りとなる彼の表情は、どこか忌々しそうにゆがんでいた。マチルダはそれ以上の言葉を発することをためらう。

 沈黙を肯定と受け取ったのか、ゼアは小さく舌打ちを漏らした。


「あいつのことは忘れろ。三年前から言ってることだ。いったい、いつになったら理解するんだ?」

「わたしは……」


 言いよどむマチルダに彼は帯剣の柄を握りしめた。その『癖』をマチルダは知っている。苛立ったとき、不満があるとき、よく無意識のうちにゼアがやる行動だ。

 わかっている。彼の言いたいことを、頭では理解できている。だけれど。感情はそんな簡単には割り切れない。割り切れるはずがない。アーグがいなくなった現実を受け入れて生きるなんて。彼がいない【今】をこのまま送り続けるなんて。

 赤石がなくなり、改めて気づいた。

 わたしは、今でも彼を愛しているのだと。


「これはお前のために言ってるんだ。いいか、あいつのことなどもう忘れて生きろ」

「ゼア……」

「あいつは両親を殺し、俺たちを置いて消えた男だ。今……生きているのか、死んでいるのかもわからん。そんな奴に執着したところで不幸になるだけだ」


 わかっている。わかっているのだ。

 忘れもしない、三年前のあの日。初秋――雨の日だった。

 三人の関係を別つきっかけとなった決定的なあの瞬間。鮮明に残る記憶がマチルダの脳裏をよみがえっていく。視界を染めあげる赤色を。

 アーグとゼアの両親であり、マチルダにとっても育ての親であったふたりの死。鮮血の海に浮かぶ彼らを見おろす、アーグの立ち姿が記憶に残り続けている。アーグが手にした短剣は血に濡れていた。事態を察するにはそれだけで充分だった。

 火が放たれていた。家のあちこちが燃え始めていた。にわかには信じられなくてマチルダはアーグを見ることしかできなかった。そのときの、冷然とした彼の瞳が忘れられない。いつだって彼は優しかったはずだ。なのに、その冷酷で無情な眼光は――

 アーグはなにもかもを裏切って捨てた。そう、ゼアは言う。

 マチルダはうつむいた。


「わかってる。ゼアの言葉は、正しい。アーグは、なにもかもをめちゃくちゃにしたのだから。わたしもあなたも、彼に裏切られたと言っていい。よく、わかっているわ」


 燃え盛る家の中。マチルダは去っていくアーグを追い、外へでようともがいた。迫る煙にむせ、目も利かない中で必死に。外へたどり着いたとき、血まみれで倒れるゼアの姿を見た。

 アーグは一家を襲い、そのままいずこへと姿を消したのだ。

 町の自警団にも協力してもらいタガ中を捜索した。近隣の町まで捜す範囲を広げても、ついぞ彼を見つけることはできなかった。


「わかってる。わかってるの。だけど」


 弱々しく首を振るマチルダは、悲痛な眼差しでゼアを見やる。


「忘れることが、できない。できないのよ……」


 忘れてしまえばすべてが楽になるとわかっていても。いっそ憎しみに身を焦がせればどれだけいいだろう。恨むことができたなら。理屈ではないのだ、感情というものは。彼がいなくなってから三年が経っても色あせぬ想い。その気持ちを無視して生きることなんて無理だったのだ。


「ゼア。あなたは違うの? アーグはあなたのお兄さんじゃない。わたしたち、ずっと一緒に過ごしてきたでしょう。本当に、忘れて……終わらせる気なの?」

「あいつのことは俺には関係ない。もう終わったんだ」

「終わってなんかいないわ!」

「終わったんだ」


 本当にそう思っているのか。マチルダはゼアを探るように見やる。彼は小さく鼻を鳴らしてその視線をあしらった。


「……とにかく、赤石は取り戻したいの」

「あの黒鴉の男からどうやって取り戻すつもりだ?」


 言葉に詰まる彼女へ、ゼアはにべもなく続けた。


「いいか。赤石を取り戻したところであいつには決して会えん。無駄だ。これ以上の話しあいは無意味だ」


 回廊が再び静寂に包まれる。話は終わったと言わんばかりにマチルダに背を向けたゼアは、そのまま廊下を奥へと消えていくのだった。

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