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第2話

「マチルダさま! 素晴らしい朗誦でした!」


 礼拝が終わると、信者たちは彼女に近寄ってきて一礼を始めた。その視線には熱がこもり、マチルダは何度目かもわからない困惑を胸に抱える。信心深いのは悪いことではなかった。むしろ中東では推奨される行いだろう。だが、まるで神さまを前にしているかのような信者たちの態度には、内心で辟易している自分がいた。

 感情を押し殺し、マチルダは薄く笑うしかない。


「顔をあげてください。わたしは、ただみなさんと同じく祈ってるだけですから」

「帰るぞ」


 集まる信者たちを掻きわけてゼアが無理やり道をつくった。マチルダは彼の後ろをついて歩きながら思わず安堵の息を吐く。毎度この様子では心がすり減っていく。こういうとき、朴訥なゼアの態度は彼女をどこか落ちつかせた。

 寺院をでて町の入口にとまった馬車に乗りこむ。二頭立ての馬車は中東の町を出立し、ゆっくりと街道を進んでいった。果てなく続く道のあちこちには草木がまばらに生えている。微風に葉を揺らしていた。整備が間にあっていないため、道は舗装のされていないむきだしの土道だ。馬車の車輪が砂利を跳ねる乾いた音を立てる。そんな侘しい街道を夕日が赤銅色に染めていた。

 今のマチルダには、その赤色が眩しい。

 馬車内は沈黙に包まれていた。腕を組んでじっと外を見ているゼアの横に座りながら、マチルダは首にさげたペンダントに触れている。無意識だった。夕日に反射するペンダントの赤石は彼から――アーグからもらった大切なものだ。彼が姿を消したあとでも、命と等しく大事な宝物。今となってはアーグとマチルダをつなぐのはこの赤石のペンダントとその思い出だけ。

 ふと、視線を感じた。顔をあげたマチルダは、となりのゼアがどこか苦い顔で赤石を見ているのに気づく。


「どうしたの?」

「……別に」


 彼はすぐにそっぽを向いた。ゼアが素っ気ないのはいつものことだから、マチルダは特に気にせず苦笑するだけだ。それから、再び外の景色に目をやるのだった。




 タガに戻ってきたときには夕方になっていた。

 乾いた風と、つんとした赤土の匂いが出迎えてくれる。故郷の香り。春になっても乾燥地帯のタガは肌寒く、ワンピースの上に薄布を纏っただけでは身が冷える。

 ゼアと一緒に馬車を降り、舗装のされぬ赤土の地面を歩く。やがて家が点在し始め、町の中心部に差しかかると、マチルダは首をひねった。


「待って。なにか、おかしくない?」


 ゼアも感じていたのか、町中に目を配っている。マチルダも改めて周囲を見回す。通りが騒然としているのだ。彼女のそばを町の人々が慌てた様子で横切っていく。その緊迫した表情。

 逃げているのだとすぐに察した。気づいたときにはすでに遠くの民家から黒煙があがっていた。

 冷たい風に乗り、焦げついた臭いが鼻を掠める。


「うわあ!」


 すぐ近くで叫ぶ声。倒れこんだ男性が尻もちをついてじりじりと後ずさりしている。前方には棍棒を持った、いかにも賊という風体の男が男性へにじり寄っていた。

 下卑た笑みを浮かべる男は、怯える男性に向けて容赦なく武器を振りかぶる。とっさに目を背けたマチルダの耳に、鈍い打撃音と男性の悲鳴が響き渡った。

 あちこちでは同じように賊が町の人を襲っている。

 なにが。なにが起きている?


「マチルダさまッ! お逃げください!」


 茶色の修道服を身につけた女性がマチルダに駆け寄ってきた。修道女のひとりだ。腕にさげた腕章から警備班の所属だとわかる。

 彼らが町にでているということは――


「なにがあったのです!?」

「黒鴉(こくあ)です! 奴らが突然、襲ってきたのです!」

「黒鴉……?」


 眉をひそめるマチルダにゼアの鋭い声が飛ぶ。


「――危ない!」


 その瞬間、背に衝撃が走った。気づけばマチルダは地面に倒れこんでいた。打ちつけた四肢が鈍く痛む。とっさに視線を跳ねあげると、そばに立つゼアが剣を抜き、彼女を守るように身構えていた。ゼアがマチルダを庇って突き飛ばしたのだとわかったのは、彼女がもといた地面に突き刺さる大剣を見たときだった。


「な……」


 地面に尻もちをつきながらマチルダは唖然と口を開く。いったいなにが起きたというのだ。だが状況は待ってはくれない。彼女の耳に低い声が響いた。


「見つけたぞ」

「え――?」


 ゼアの声では、ない。マチルダとゼアに対峙し、いつの間にか立っている人物がいる。夕闇にぼやけるのは黒い外套。その裾が風に翻っている。まるで鴉の翼のようにも見えた。フードを目深に被り、顔全体を窺うことはできない。ただ、フードから覗く顎は鋭利に尖っていた。長身とその低い声から男だと理解できたが、わかるのはそれだけだ。

 黒い外套の男は地面にめりこむ大剣を易々と引き抜き、流れる所作で構え直す。呼応してゼアが臨戦態勢をとった。男の足もとには先ほどの修道女が血を流して倒れている。見開かれた目は絶命していることを表していた。

 マチルダは息をのむ。

 身が竦んで動けなかった。


「貴様……何者だ?」


 ゼアが声を忍ばせる。黒鴉の男は低く忍び笑いをするだけだ。

 その動きは速かった。男は肉薄すると素早く大剣を薙ぐ。ゼアがとっさにその斬撃を剣で受けとめた。交錯した刃が甲高い金属音を響かせる。ふたりの剣はそのまま鍔迫り合いとなり、じりじりと刀身が火花を散らした。

 マチルダは身体の痛みを堪えて立ちあがった。同時にゼアが男に押し負けて後ろへ弾き飛ばされる。体勢を崩した彼に男は次の攻撃を繰りだしていた。上段からの一撃が弧を描く、その寸前。


「――黒鴉の者よ、なんの用です! これ以上のタガでの暴挙、赦されません! 直ちにひきなさいッ!」


 男は振りかぶった剣をとめる。マチルダに顔を向けた。唯一あらわになった口もとを冷笑にゆがめて。

 マチルダは震える身体を堪えて男を睨む。


「威勢がいいな。悪くない」


 剣の切っ先をゼアからマチルダにひたと突きつけてくる。ゼアが彼女を守るように前へ割りこむ。


「――赤石を寄こせ」


 予期せぬ言葉に彼女は眉を寄せた。赤石だと? 首にさがるペンダントを無意識に握りしめる。男はマチルダに身体ごと向き直り、剣先を向けたまま低い声で続けた。


「大人しくその赤石を寄こせば、配下ともどもすぐにここから退いてやる」

「なにを、言って……」


 彼女の手に収まる赤石は、紫紺に染まりつつある空の下で鈍色に光っていた。赤石を握る手により一層の力をこめて、マチルダはその場から一歩ほど後退りした。

 これはアーグからもらった大切なものだ。彼との唯一の思い出なのだ。

 得体の知れない、黒鴉という者になど渡せるはずもない。


「渡せません」

「そうか。このまま町の者がどうなっても構わない、というわけだな」


 男がひとつ笑った。そのとき、男を横切るように逃げてきた老夫婦がマチルダの視界に映る。彼女は目を見開いた。


「危ないッ! 逃げ――」


 男の剣は老夫婦を容易く切り裂いていた。血飛沫があがり、悲鳴をあげる間もなく倒れる老夫婦を前にマチルダは顔を強ばらせた。


「やめ、やめてッ! 町の人に手をださないで!」

「ならばそれを渡せ」

「くっ……どうして、どうしてこれを……」


 このままでは町に被害が広がるばかりだ。遠くからあがる黒煙は勢いを増し、至るところでくすぶっている。賊の下卑た大声と町人たちの悲鳴がマチルダの耳に届く。警護班の修道士たちが敵と武器を交錯させていた。だが、戦い慣れた賊に苦戦しているのは間違いなかった。

 唇を噛みしめ、マチルダは男に強い眼光を飛ばす。


「これはただの古い宝石でしかありません。お金が欲しいのなら、もっと別の――」

「違うな。それは『鍵』だ」


 訝しげに顔をゆがめるマチルダに、男は至って沈毅な態度で言う。

「お前が持っていたところで無駄なもの。強き得物は、強き者に渡ってこそ真価を発するのだからな」

 強き得物――? この赤石が武器だとでもいうのか。言葉の意味がわからず、マチルダは沈黙するしかない。

「話はここまでだ。さあ、それを寄こせ。さもなければ、配下が連中を殺すだろう」

 これ以上の犠牲はだせない。マチルダは歯を噛みしめる。赤石はアーグと自分をつなぐ大事な架け橋。失えば我々の関係が消えてなくなってしまう。だが、このままタガの人々が傷ついていくのを看過はできない。


「わかり、ました……」


 マチルダは首紐から赤石を取り外すと、男へ向けて差しだした。

 男は手早く赤石を奪い取り、どこか満足げに鼻を鳴らす。黒い外套が翻った。さながら鴉のごとくその場を去っていく男を、マチルダはじっと見つめるしかなかった。

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