天窓から降りそそぐ朝の陽光が小さな部屋を隅々まで照らしていた。
祈りの間と呼ばれるその部屋の奥には、姿なき世界神を具現化した像が祀られている。像は差しこむ光に反射して黄金色に染まっていた。世界樹の枝でつくられた杖を携えて静かに佇む、男性とも女性ともつかぬその姿。祖父ウォーデルにも、オーエン教の教祖ミザロにも似た面影をもつ世界神を前にして、マチルダは両ひざをつき祈りを捧げる。
毎朝、毎夕の日課だ。世界そのものを神として信仰する。すべては神の表れだとオーエン教は伝える。草木、大地、人、その感情の機微すらも――すべては神の一部であり、世界であり、神そのものなのだと。
それを心から信じることは、修道女として生きる彼女の義務である。
閉じていたまぶたをゆっくりと持ちあげ、マチルダは世界神の偶像を見つめる。
「世界神さま……ミザロさま。おじいさま。わたし、間違っていますか」
漏れる言葉に応える者はいない。わかっている。マチルダは小さく吐息をつくと、深く息を吸いこむ。重く甘い香の匂いが部屋に満ちていた。
以前は祈りを捧げるたびに、世界――神に守られているのだと確信していた。それが希望だった。今は違う。祈れば祈るほど、胸に空いた穴が広がっていく。それが苦しくてどうしようもなかった。
こんな自分には祈る資格などないはずだ。いくら祈りを捧げたところで、救われることはない。無意味なのだと、心のどこかで感じずにはいられなかったからだ。
それはオーエン教に対する裏切りにほかならないのではないか。
それでも、思ってしまう。
アーグが消えた、三年前のあの日からずっと。
「だめね、しっかりしないと」
なんとか気持ちを切り替えるように立ちあがり、マチルダは軽く頬を叩く。祈りの間の壁や床は銀で塗装されており、彼女の姿を玲瓏に映しだしている。
真っすぐ腰までを流れる栗色の髪と、垂れ目がちの黒い瞳。華奢な身体をくるぶしまで覆う淡い色のワンピース。肩にふわりとした薄布を羽織った様子はいつものマチルダの姿だ。
だが、よくよく見れば目の下には薄っすらと隈ができているし、顔は寝不足のためか青ざめていた。ああ、これではまたまわりの人間から心配されてしまう。いらぬ気がかりを与えたくはないのだが。マチルダは深くため息をつく。
そんなことを考えながら、音を立てずにそっと祈りの間をでる。
扉の先も一面が銀で塗装された空間になっていた。
天井は高く、ステンドグラスが光に反射してあたりを七色に染めている。寺院内部は尖塔の形をしていて、構造的には中央部分が吹き抜けのドーナツ型である。祈りの間がある三階の回廊からでも周囲をぐるりと一望できる造りだ。
重く甘い香の匂いは相変わらずに漂っている。空気は澄みきっていた。鋭いほどにだ。眼下に見える一階のエントランスホールでは、警備班の修道士が幾人と立っている。厳重な配置はオーエン教がタガの町でいかに重要かを物語っていた。ホールの中心には世界神の大きな偶像。そして遠くから世界神を取り囲むように、教祖ミザロや祖父ウォーデルをはじめとする歴代の司祭像が並んでいる。
マチルダは寺院の回廊から、その荘厳な様子をふと見おろした。
「祈りは終わったのか」
横ざまから低いぶっきらぼうな声がかかり、彼女は視線を跳ねあげる。
すぐそばには年若い男が立っていた。
短い無造作な黒髪、鋭い黒の瞳。眉間に寄ったしわが朴訥な印象を与える男である。はたから見るといかにも無愛想な雰囲気だが、それはいつものことだとマチルダは知っていた。軍服につくりの似た立ち襟の戦闘服に身を包み、腰には帯剣している。物騒な見た目の彼はマチルダの現『付き人』である。
「……ゼア」
「行くぞ。今日も予定があるからな」
ゼアはマチルダがうなずくのを見ると、にべもなく背を向けて歩きだすのだった。
寺院をでた瞬間、あたりの空気は一変した。
鼻を突く甘い香の匂いから、草木や赤土のみずみずしい香りが風に乗って運ばれてくる。気分が洗練されるようだ。マチルダは深く息を吸いこむ。春の緩やかな風が彼女の長い髪とワンピースの裾を優しく揺らしている。軽く手で押さえながら彼女はあたりを見回した。
空は雲ひとつない晴天で、太陽の光に思わず目を細める。
眼下にはタガの町並みが広がっていた。
タガの町は大きな崖を背に展開する、大陸中東部の小さな町だ。かつて山脈だったそれは長い月日の中で崩れて断崖となり、今では町を見守るようにそびえている。
タガの寺院は崖中腹の踊り場にあった。
ここからは町を一望できる。灰色のサイコロ型をした民家が整然と並び、舗装されぬ赤土の地面が町をどこか古風に彩っている。
――わたしたちが、ずっと一緒に暮らしてきた町。
昔は踊り場に生える芝生の上に座り、眼下に町を眺めながら、アーグと他愛のない言葉を交わしたものだ。そのひとときは今になって思えば、かけがえのないものだった。何時間だって彼と話していられたし、できるなら、彼の声にずっと耳を傾けていたかった。ずっと一緒にいたかった。ずっと、ずっとこの時が続くのだと信じていた。
もう、遠い昔のように感じる。
タガの町並みを見るたび思いだすのは、やはりアーグのことだ。
背の高いすらっとした立ち姿。大人びた端正な顔に浮かぶ、明るく朗らかな笑顔。たまに見せる、はにかんだ表情。脳裏には今もありありと焼きついている。決して忘れることなどない。
彼がそばにいるだけでよかった。彼の声を聞くたび、その存在を感じるたびに、一切の悩みや怖れが薄れていくのを覚えていた。この先もずっと彼がそばにいてくれるのだと、当たり前に信じていたのだ。
それなのに。
三年前に見せた彼の凄惨な表情が脳裏をよぎる。マチルダは慌てて首を振った。思考を掻き消すように。思いだすと深い哀切に沈みそうになる。信者たちの面前に立つ身だ。今、暗い顔をするわけにはいかない。
「おい、どうした」
マチルダはハッとしてとなりを見やった。いつの間にか物思いに耽っていたらしい。怪訝な顔を浮かべるゼアに、苦し紛れの笑みを浮かべてみせた。
「ううん、なんでもないの。さあ、今日も頑張りましょう」
タガと同じ中東部に位置する隣町、アレンザの集団礼拝に予定通り参加した。中東各地の寺院で祈祷を行うのがマチルダの日課であり、またオーエン家の末裔として課せられた仕事だ。
寺院に集まり、膝を折る人々は誰もが熱心なオーエン教信者である。みんなの前で静かに祈るマチルダを見やる瞳はうやうやしく輝いていた。
彼女は内心、苦笑するばかりだ。胸に一抹の罪悪感が掠めていくのを感じて。
己の姿にウォーデルや教祖ミザロを重ねているのだとしたら大きな間違いだ。信者たちの目に晒されるたびモヤモヤとした感覚が胸を襲う。だからマチルダは集団礼拝など嫌いだった。
……確かにウォーデルの孫娘であることは事実だ。だが、それだけだ。信者たちの焦がれるような眼差しに胸中は複雑で、まるで騙しているみたいな罪悪感が残る。結局はただひとりの人間でしかないのに。それも未熟な、弱い人間だ。
そんな気持ちをずっと抱えて生きてきた。
かつて大陸の大気には『魔力』が存在した。そして人間ひとりひとりの体内にも魔力が宿されていたという。そのふたつの魔力を共鳴・結合させることで魔法として具現化する。六十年前の戦いで活躍した英雄、賢者デュファなどは例外だが、大気と体内の魔力がそろっていないと基本的に魔法として成り立たず、治癒術としても行使できない。
今はなき魔法は二種類に分類されていた。『魔術』と『治癒術』だ。
治癒術はオーエン教の修道士や司祭の中でも特に強い魔力を持つ者のみが扱えるものだった。その筆頭がウォーデルであり、祖父は大勢の人々をあまねく癒やし、導いてきた。
だが魔力はすでに現在には存在しない。戦いのあと突如として消失したのだ。数多くの歴史書では精霊の仕業だと記されている。愚かな戦いを起こした人間に精霊が与えた罰なのだと。
たとえオーエン家の末裔でも、魔力が消えた今では祖父のように人々の治療などできなかった。人々の心に寄り添う余裕もマチルダにはない。
今の彼女にできるのは意味を成さぬ平坦な祈りと、各町で行われる雑多な行事に司祭者として赴くことだけ。ウォーデルの孫娘、オーエンの名など、今はただの名でしかない。
――アーグはわたしを、特別扱いはしなかったのに。