「昔さ、そう約束……したよな」
眼下に広がる町並みを見てアーグは懐かしむように囁いた。
成人を迎え、彼がデュリスト家の長男としてマチルダの付き人になり数か月が経ったころ。
ふたりは寄り添って座り、風に身を委ねながら眼下に広がる町並みを見ていた。暇があるときはいつも、こうして静かなひとときを過ごしている。穏やかに流れる彼との時間は、マチルダにとってかけがえのない宝物だった。
乾いた風があたりを緩やかに吹き、マチルダの長い栗色の髪を揺らす。
マチルダはふと彼の横顔を見つめる。あのときより背も伸び、もともと大人びていた面立ちは精悍に引き締まっていた。その赤茶けた髪が微風に乗り、長めの前髪が耳もとでさらりとなびいている。彼はすぐ視線に気づいて顔を向けてくる。くすぐったそうに笑ってみせた。
開いた口からのぞく八重歯は相変わらずだ。
「な、マチルダ。これ、あげるよ」
彼の手に載っていたのは赤い宝石だ。春の日差しに反射して白く煌めいている。まるで手のひらに夕日が現れたみたいで、マチルダは驚きに目を見張った。それは誇張表現でもなんでもない。心から感じたことだ。
マチルダは見開いた瞳をそのままに首をかしげる。
「どうしたの、これ?」
「ああ、いや。ちょっとな。マチルダに似合うと思ってさ」
彼は軽く頬を掻いた。目線を逸らすと、どこか気恥ずかしそうに口もとを緩める。
「受け取ってくれないかな」
「でも、こんな高級そうなもの」
手の内で輝く宝石は、濁りのない赤色を放っている。かなりの値が張る品だと見ただけでもわかった。宝石商も飛びつく一品ではないか、とマチルダは神妙に彼を見やる。
アーグは鷹揚に歯を見せて笑う。
「いいんだよ。オレが持ってても仕方ないしさ。なあ、知ってるか?」
声色が真剣なものに変わったのを感じて彼女は顔をあげた。彼の瞳が真っすぐにマチルダを見つめてくる。その金色の双眸に思わず吸いこまれそうになる。
「妖精って友愛の証に赤石(あかいし)を贈るんだって。だから、それはオレの気持ち」
「友愛……」
「そう。あ! 柄にもないって思ってるだろ」
彼はマチルダの返答を待たずに頬をふくらませた。ころころと変わる表情は見ていて飽きない。マチルダの心に温かいものが宿る。それは胸いっぱいを満たすように広がり、やがて溶けて馴染んでいく。
「そんなこと、ないわ」
でた声は、ひどく掠れたものだった。風の音に掻き消されてしまいそうなほどに。
唇が震えてきて、鼻の奥がつんと痛み始める。
「ど、どうした? やっぱ変か? 変だったか?」
彼の慌てふためく様子が滲んで見えた。頬を熱いものが流れていく。伝う雫がマチルダの白い手の甲に落ちて跳ねた。自分が泣いていると気づいたのは、目尻に溜まったそれを拭う、彼の優しい指の温度を感じてだ。
「……なんか、ごめんな。変なことして」
「違う。違うの。わたしは」
悲しくて泣いているわけではないのだ。ただ、実感が涙となってこぼれ落ちていくだけ。
彼の前では、ただのマチルダでいいと思わせてくれるから。それは彼女にとっての救いにほかならなかった。かつて戦いで人々を癒やし、救った大司祭ウォーデルの孫娘でもなく。この町を守護する敬虔な修道女でもない。弱いひとりの女性として、己が心を晒してもいいのだと。
虚勢も意地も必要ないと、彼は教えてくれているのだ。
ずっと彼のそばにいたい。彼がいればいつだって心が自由になれる気がした。すべての重荷から解き放たれるような感覚がした。空も、雲も、花々も、草の一本でさえ輝いて見えた。幸せだと、心から思えた。
「ありがとう」
彼の手のひらからそっと赤石を手に取り、マチルダは慈しんで撫でる。
屈託のない笑顔を浮かべた。
「ずっと、そばにいてね。約束して。これからもずっと、わたしたちは一緒よ」
「ああ、その石に誓うよ」
彼は赤石を載せたマチルダの手を包むように両手で握りしめる。
その手の優しい温もりが心にも深く伝わってくる。
「オレたちは、ずっと一緒だ」
柔らかい風が吹き、ふたりが座る芝生の草がさらさらと音を立てて揺れる。
ふたりはどちらからともなく顔を見あわせ、笑いあった。
そこに偽りなどなかった。この時がずっと続くのだと、マチルダは信じていた。