夕焼け空は紫紺が入り混じり始めていた。遠くで鴉の鳴き声が細く響く。学問所から帰路につく生徒たちに混じり、マチルダはアーグと肩を並べて歩いていた。
鞄を持つ手がじんわりと今も痛む。脳裏には先生の叱り声がしっかりと残っていた。
アーグは学問所を振り返ると、マチルダを見て快活に笑う。
「あっはは。まさか、マチルダが思いっきりぶん殴るとはなぁ! 相手の顔見た? 目ん玉飛びだしてたぞ」
「い、言わないでよ! あ、頭に血がのぼっていたわ。ほんと、やっちゃった……明日からどうしたらいいの」
額を抱えるマチルダ。偉大なる司祭の孫娘が同級生を殴りつけるなんて前代未聞の話だ。相手の唖然とした顔が今も頭に焼きついている。
アーグは鞄を持った両手を頭の後ろで組みながら、それでもマチルダに笑いかけた。
「反省なんかしなくてもいいんだよ! マチルダは間違ってないし。むしろ、吹っ切れたほうがいいに決まってるんだから」
「もう! 焚きつけないでよ」
彼女はふと息を吐きだし、
「でも、ありがとう。なんか、スッキリしたの。かかっていた靄が晴れたみたいで」
「はは、そりゃよかった」
「……もしかして、こうなることをわかっててやったの?」
「ん? さあね~」
口笛を吹いてマチルダの前を歩くアーグ。
彼女は眉を垂らす。
「アーグ、あなたって人は……」
「あ、ゼアだ! おーい!」
彼は突然、小走りに駆けだした。あたふたとマチルダはあとをついていく。アーグは前を歩いていたとある少年の肩を叩いた。振り返った少年――ゼアへ向けて朗らかに声をかける。
「よっ、今帰りか? この時間に帰ってるってことは、今日は問題も起こさず終わったみたいだな」
「……なんだ、馬鹿兄」
ゼアは渋い顔をした。年端もいかない少年に似つかわしくないしわが眉間に刻まれている。腰に帯びた木剣も相まって怖いというか、物騒な雰囲気だ。そんなゼアの様子にたじろぐこともなく、アーグは快活に笑ってみせる。
「おいおい、馬鹿はないだろ? お前の大切なお兄さんだぞ~?」
「気色悪い。近づくな」
「ひどい嫌われようだなあ。まあ、いいや。それより聞いてくれよ。マチルダがさ。ついさっき同級生を――」
「ちょっと! 待って……! い、言わないでってば!」
マチルダは焦って止めに入るものの、アーグは面白おかしく顛末を話してしまうのだった。
思わず顔を両手で覆うマチルダ。最悪である。きっとゼアも呆れているだろう。そう思ってそろそろとゼアのほうを見るマチルダだが、当の彼はいつも通りの仏頂面でいた。
「……別に」
「えっ?」
ゼアは目線をさげ、やがてボソッと言う。
「……お前は、そのくらいでいるほうがいい」
「そうそう。マチルダは真面目すぎるんだもんな」
すると、不意にアーグは立ちどまった。慌てて足をとめたマチルダを見やり、彼はいつになく真剣な顔になる。その鋭利な面立ちは夕闇の中でもはっきりとわかった。
「悩むことなんてないんだぞ、マチルダ。マチルダは、マチルダだし。ウォーデルの孫娘とかオーエン家の末裔とか。別に関係ない。お前はお前でいていいんだからな」
その言葉は、乾いていたマチルダの心に染み入るようだった。うまく言葉を返せない。うつむくマチルダにアーグは力強く続ける。
「ああ。もし、まだなにか言ってくる連中がいたらオレたちに相談してくれよ。オレとゼアが責任をもってコテンパンにするからさ。マチルダが笑顔になってくれるなら、オレ、なんだってするから」
「ああ。……俺も」
ゼアも小さくうなずき、それからふたりにそっぽを向いてずかずか歩いていった。
マチルダが顔をあげると、アーグと真っすぐに視線がかちあった。彼女を見るアーグの金色の瞳は純然と輝いている。一切の曇りもなく、偽りもなく、痛いほど、実直な眼差し。
マチルダは唇を噛みしめた。
「どうして、そこまで言ってくれるの?」
「ん?」
「わたしのためにアーグはいつも元気づけてくれるから。どうしてなのかなって」
「そりゃあ野暮な質問だよな。大切な義妹のためだよ。それ以外にないだろう?」
「義妹……」
「あ、今ガッカリしたか?」
「べ、別にしてないわよ!」
不意に大きな声がでてしまった。頬を赤らめるマチルダを見て、アーグは「うんうん」と楽しげにうなずく。
「よーしよし、元気でてきたな。その調子でいこう!」
「……ね、アーグ。お願いがあるの」
「うん?」
「――わたしとこれからも一緒にいてね。それだけ約束してほしいんだ。そうしたら、わたしは大丈夫だから。きっと、前を向いていけるから」