身体を揺すられるような感覚がした。マチルダは薄っすらとまぶたを持ちあげる。夢うつつのぼんやり感に身を任せながら、掠れた視界に目をこする。
机に突っ伏していたようだ。腕を枕にして臥せっていたせいか少し痺れがあった。顔をあげたマチルダの目線の先には、怜悧な顔をした少年がこちらを覗きこんでいた。
「おーい、マチルダ! あ、やっと気づいたか?」
「え? わたし……」
思わずきょろきょろと周囲を見回す。館内はしんと静まり返っていた。生徒たちもすでに数えるほどしか残っていない。窓の向こうには夕闇が広がっていた。
いつの間にか眠りこんでしまったらしい。
「こんなとこで寝てたら風邪ひくぞ?」
「あ……うん」
「ほんとに大丈夫かよ」
どこか呆れ声の少年アーグは苦笑を浮かべた。あがった口角から八重歯が小さくのぞく。さらりとした赤茶色の髪と切れ長の金目が大人びた印象を与える少年だが、その笑みはどこか無邪気なあどけなさがあった。
彼は机の上に置かれた書物やノートを見て、ふと形の整った眉をひそめる。
「なあ、これ。なんだ?」
「あ、ええと」
ぐしゃぐしゃにされた例のそれに先ほどの記憶がよみがえる。なんだかばつが悪くなり、書物を隠すように腕で覆う。
マチルダはアーグを見あげ、無理やり口もとをほころばせた。
「なんでもないの。なんでも……気にしないで」
「マチルダ、なんでもなくないよ。これ、やられたんだろ?」
彼はマチルダの腕からするりとボロボロの書物を抜き取り、眼前に突きつけてくる。
彼女は目を逸らしてうつむいた。
「大丈夫。平気だから。こんなの、なんでもない……」
そう、なんでもないのだ。いつものことだから。心の中で繰り返す。マチルダは顔をあげ、アーグから書物を取り返すとノートと一緒にまとめて胸に抱える。その腕を不意にアーグがつかんだ。
書物とノートが音を立てて床に散らばる。
マチルダはハッとしてアーグを見た。彼の表情は真剣だった。
「我慢はよくないよ。辛いなら、辛いって言わなきゃ。オレ、マチルダのそんな顔は見たくないな。俺たち、今となっては家族だろ?」
マチルダの両親は数年前に亡くなっていた。天涯孤独となった彼女を引き取ったのは代々オーエン家の『付き人』を輩出する名門、デュリスト家だった。オーエン家とデュリスト家の付き合いは長い。かつてウォーデルの付き人を担った女性リサ・デュリストは、ウォーデルに引けを取らない慈悲に満ちた人物であったという。だが、彼女は妖精との戦いのさなか蔓延した病に倒れ、生まれたばかりの赤子を残して亡くなったという。そのときの赤子がアーグの父親であり、彼は妻とともにマチルダを快く養子にするのだった。
今も、はっきりと覚えている。初めて出会ったときのアーグを。彼はマチルダの肩を優しく叩き、朗らかに挨拶をしてくれた。両親の死と、生来的な引っ込み思案によって鬱々としていたマチルダの心に、まるで光が差したかのような一瞬。
だが――
鋭く息を吸った彼女は、やがて震える唇のままポツリと言う。
「仕方ないの。わたしはウォーデルの孫娘なのに、なにもできないでいるから……みんな呆れてるんだと思う」
なにもできていない。それどころかみんなとうまく馴染めなくて。孤立していて。
名前ばかりが先に行ってしまい、それに気持ちが追いつかない。
彼女は床に落ちた本を拾うこともせず、ただうつむく。
「上手にできないの。ウォーデルの孫娘なのに。それが、辛くて」
「そっか」
アーグはマチルダの頭に手を置くとそっと撫でた。
驚いた彼女はおずおずと彼を見あげる。
「アーグ……?」
「よし、オレに任せとけ。マチルダ」
「え?」
「だから任せとけって! な、オレが解決する! お前を泣かせるなんて許せないからな。どこの教室だ? まだ帰ってないかもしれないだろ」
「え、ええと」
「ぶん殴って正気に戻してやるよ! よし、今から連中のとこ行くぞ! 案内してくれッ」
「ま、待って!」
つい大きな声がでたことにマチルダは驚いたが今はそれどころではない。彼女は立ちあがると、ずんずんと歩いていくアーグに慌てて言い放つ。
「さすがに殴るのはよくないわよ――! 問題になったら大変だし」
「構うか! ギッタギタにしてやる!」
何人かの生徒がなにごとかとふたりを見やっていた。気恥ずかしさで頬が熱くなる。なおも力強く歩きだすアーグの前に回りこみ、マチルダはとっさに両手を広げた。
「ま、待って。アーグが殴るのはなし! わた、わたしが殴るから――ッ」
「……お?」
意外そうに眉をつりあげるアーグ。動きをとめた彼に対し、マチルダは息を吸いこみ表情を引き締める。
「……だって、悔しいから。自分がこのままなのは……だから、だからわたしは」
踵を返し、今度はマチルダが駆けだした。
「――行ってくる!」