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第27話 7月29日 月曜日

 私はマリーゴールドの苗を3株買い蔵之介のマンションを見上げた。今日、私と蔵之介は別れる。そう思うと涙が滲んだ。深呼吸をしてエレベーターのボタンを押す、上昇する箱の中で会える喜びと別れの切なさが交差した。


(笑顔、笑顔!)


 意を決して部屋のインターフォンを押した。


「はい」

「蔵之介、私」

「早かったね、今開けるよ」


 黒い眼鏡を外した蔵之介の笑顔は10年前と何ら変わらず胸が締め付けられた。


「お邪魔します」

「お邪魔されます」

「ひ、酷っ!」

「嘘だよ、嘘嘘」


 17:00、近所の高等学校から聞こえて来るチャイムを境に私たちは別れる。


「はい、これ」

「マリーゴールド、何色の花が咲くの?やっぱり黄色?」

「黄色とオレンジ」

「オレンジ、莉子がくれた紙飛行機も黄色とオレンジが多かったね」

「明るい色が好きなの」

「枯らさないようにするよ」

「うん」


 ベランダに新聞紙を敷き詰めてテラコッタの鉢植えをひっくり返してみたが想像以上に雑草は根深くとても苗を植えられる土ではなかった。


「どうしよう」

「これじゃ植えられないね」

「ホームセンターで土、買って来るよ」

「何の土か分かる?腐葉土か観葉植物の土でも良いわ」

「分からなかったら店員さんに聞くよ」


 車の鍵を握った蔵之介は不意に振り向いた。


「どうしたの?」

「買い物のついでにドライブに行かない?」

「ドライブ、どこに行くの?」

「港のフェリーターミナル、10年前、一緒に行ったよね」

「うん」

「何日か覚えてる?」

「8月22日、忘れないよ」

「星は見られないけど海を見に行こう、行く?それともお留守番する?」

「行きたい」

「じゃ、支度して」


 10年前は蔵之介が運転する自転車のキャリアに座って港を目指した。10年後の今は蔵之介が運転する自動車の助手席に乗ってあの港に向かっている。私と蔵之介は18歳と16歳だったあの頃を懐かしみながら別れまでの時間をカウントダウンしていた。


「蔵之介が運転する車に乗るなんて思わなかった」

「僕も莉子を乗せるとは思わなかった」

「散らかってるわね」

「ごめん」


 セダンタイプの後部座席は雑誌や書類、足元にはエナジードリンクの空き缶が幾つも転がっていた。


「やっぱりブラック企業ね、仕事の書類ばかりじゃないの」

「僕がだらしないだけだよ、済んだ書類は処分すれば良いんだけどなかなか思いきれなくて。どんどん溜まっていっちゃうんだよ」

「済んだ書類ね」

「なに?」

「ううん、なんでもない」


 私は済んだ書類と同じだ。


「あ、莉子、赤信号」

「赤信号?」


 蔵之介の顔が近付き唇に触れた。そしてゆっくりと離れた唇には私の口紅の色が残った。


「やだ、びっくりした」

「へへへ」


 子ども染みた笑い方はあの頃と変わらなかった。私たちは赤信号で停車するたびに唇を重ね合った。片側3車線の直線道路、港のクルーズターミナルが近付いて来た。


「こんな感じだった?」

「数年前に建て替えたんだよ」

「ガラス張り、綺麗ね白い豪華客船のデッキみたい」

「中に入って見る?」

「ううん。海を見ながら散歩しよう」

「そうだね」


 蔵之介の指先が絡まり、自然と手を繋いでいた。私たちは港に向かう芝生の小径を歩きながら木陰に隠れて口付けた。


「もう随分変わっちゃったけど、このベンチだよ」

「このベンチに座って流れ星を見たんだ」

「流れ星が流れた時、莉子は僕を突き飛ばして立ち上がったんだよ」

「突き飛ばしてなんかいないわ!」


 潮風があの夜を連れて来た。


「いいや、突き飛ばしたね」

「ひ、酷っ!」

「酷いのは莉子だよ、あの時キスしようと思ってたのに」

「えっーーーーそうなの?」

「はい、そうなんです」


 10年前の口付けを今、交わす。その時、蔵之介が私の手を力強く握った。


「ちょっと、莉子!これは!」

「今日だけ、今日だけだから」

「今日だけ」

「今日だけ」


 私の左手の薬指にはルビーの指輪が光を弾いていた。蔵之介の顔は驚きから微笑みに変わり互いを強くかき抱いた。胸の鼓動が伝わって来た。温かかった。そして私たちは赤信号のたびに口付けホームセンターでマリーゴールドの土を買った。


「じゃあ僕がするから、莉子はそこで見ていて」

「はい。頑張って下さい」

「頑張るってこれを植えるだけでしょ?」


 切なさがつのる。


「7月29日の記念に」

「莉子、そんな寂しい事は言わないの!」

「じゃあ、また来ても良い?」

「ーーーーーえ」

「来ても良い?」


 私は言ってはいけない言葉を口にしてしまった。蔵之介の表情が曇った。


「莉子は離婚する気はないんでしょ?」

「ーーーーそれは」

「なら駄目だよ、僕たちは今日でお別れだよ」


 その言葉に喉の奥が詰まった。頬を涙が伝った。けれど蔵之介は目線を逸らし黙々とマリーゴールドの苗をテラコッタの鉢に植えていた。蔵之介の決意は変わらない、揺れているのは私だけだった。


 17:00 高等学校のチャイムが鳴った お別れの時だ

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