7月15日月曜日
今朝の私と直也さんは少し気不味く、会社に送り出す口付けは素っ気ないものだった。昨夜、カレンダーを見た直也さんに「明日のこの星マークはなに?」と訊ねられ私は咄嗟に嘘を吐いてしまった。
「友だちと会うの」
「莉子が出掛けるなんて珍しいね、誰と?」
「遠藤ちゃん」
「あぁ、遠藤さん。しばらく会ってないな」
遠藤ちゃんは私の高等学校時代の友人だ。遠藤ちゃんと直也さんは大学のサークル仲間で私に直也さんを紹介してくれたのも遠藤ちゃんだった。
「今度、一緒に食事にでも行こうか」
「そ、そうだね」
後ろめたい、蔵之介と会うことは許されない事なのだろう。私は左の薬指から結婚指輪を外しマリーゴールドの指輪を
港に程近い住宅街の一角に隠れ家の様なカフェがあった。スミカグラス
(・・・懐かしい)
日本家屋の外観、
(なにも変わらない)
ウォールナットの美しい木目、艶やかな手触りのテーブル、天井からはペンダントライトが暖色系の明かりを灯しアイボリーのカーテンが空調に揺れた。周囲を見渡したが蔵之介の姿は無かった。レジスター後ろの壁掛け時計は13:20を指していた。
(少し早く来ちゃった)
そして私は2人で座った
「いらっしゃいませ」
目の前にレモンの輪切りが浮かんだグラスが置かれ、おしぼりがセッティングされた。莉子はメニュー表を広げて見たが「待ち合わせなので」とオーダーを一旦断った。跳ねる心音を落ち着かせる為に文庫本を開いたが文字が頭の中を素通りした。
カランカラン
扉が開く音で目を上げたがスタッフがランチタイムの看板を下げる所だった。安堵の息が漏れたがその背後に背の高い男性の姿が見えた。
(蔵之介)
蔵之介は少し背が高くなっていた。黒縁の眼鏡と撫で付けた長い前髪、濃紺のスーツにグレーのネクタイを締めていた。
(別人みたい)
168cmの日に焼けた短髪の蔵之介はもういない。時の流れを感じた。その分自分も歳を重ねている、老けたと思われるのではないかと恥ずかしかった。
「莉子さん、久しぶり」
「久しぶり」
蔵之介の前にレモンの輪切りが浮かんだグラスが置かれ、おしぼりがセッティングされた。蔵之介はメニューを見る事なく
「
「かしこまりました」
「
「工芸茶、莉子さんが教えてくれたんだよ」
「そうだったね会えるなんて思わなかった」
「僕は会えると思ってた」
「それ、どういう意味?」
その時、ガラスのティーポットが運ばれて来た。
「上手く言えないんだけど大人になってここに来るのは2度目なんだ」
「え?」
「だから僕は莉子さんに会えると思っていた」
「よく分からない」
「綺麗」
私たちはしばらく無言で
(蔵之介だ)
年齢を重ねてはいるがその面影に胸が熱くなった。
「なに、そんなに僕変わった?」
「うん、サラリーマンみたいだし」
「サラリーマンだよ、銀行員」
「えっ!銀行員がこんなところにいていいの!?」
「半日休暇」
「そうなんだ」
「月曜日は半日休暇なんだ」
「そうなんだ」
ジャスミン茶の香りが鼻をくすぐり私はガラスのティーカップにそれを注いだ。意識があの夏へと巻き戻ったような気がした。ガラスのティーカップを持つ手に蔵之介の視線が絡んだ。
「莉子さん、その指輪まだ持っていてくれたんだ」
「当たり前じゃない」
「プラチナの指輪はどうしたの?もうプロポーズされたの?」
「?」
「あの時の莉子さんはプロポーズされていないって言っていたから」
「今度の私の誕生日で結婚3周年なの」
「誕生日に結婚式、おめでとう」
「おめでたくないわ、もう29歳になるのよ」
蔵之介は私の手に手を重ね、私の心臓は跳ね上がった。
「莉子さん。僕、莉子さんの事がずっと好きでした」
店の騒めきが消えた。
「蔵之介、私結婚しているのよ」
「知っています」
「やだなぁ、冗談きついよ」
「なんで僕たち別れちゃったんですか?」
「憶えてないの?」
「
私は大きなため息を吐いた。
「蔵之介からサッカーに集中したいからって言われて。その頃、私が今の主人と同じサークルに入って・・・なんとなく距離が出来た感じ、かな」
「喧嘩別れじゃなかったんですね」
「うん、東京は遠かったのよ」
「そうですか」
「うん」
蔵之介はテーブルに身を乗り出して私を凝視した。
「莉子さん、僕の事全然分からなかった?」
一瞬の間が2人を近付けた。
「・・・・分かった、すぐに蔵之介だって分かった」
「僕も莉子さんだって分かったよ」
「髪も伸びておばさんになったのに?服の趣味だって違うわ」
「そんなの関係ないよ、すぐに分かった」
蔵之介は私の手を力強く握った。
「莉子、会いたかった」
10年前と変わらぬその呼び名に私の頬を涙が伝い落ちた。
「私も会いたかった」
不意に蔵之介は私の手を離し、自分の手のひらを凝視していた。そして大きな溜め息を吐いた。
「やっぱり変わらないのか」
「なんの事?」
「もしかしたら
「やり直す?」
蔵之介の目は真剣だった。
「莉子、ご主人と別れる気はある?」
「え、な、ないわ」
「そうだよね」
一瞬黙り込んだ蔵之介は私の両手を握った。
「2週間、莉子の誕生日までの2週間、月曜日だけで良いんだ。僕と会って欲しい」
「どういう事?」
「僕は莉子の誕生日をお祝いしたかった。ただそれだけだよ」
「で、でも」
「なにもしないよ、会うだけだよ」
「考えさせて」
「・・・うん、考えて」
蔵之介はレシートを持つと席を立った。
「家の近くまで送ろうか?」
「大丈夫、車で来たから」
「決まったら連絡して。次に会える日は22日、その次は29日、それでお別れだよ」
別れると聞いた瞬間胸が締め付けられた。
ーーーーその頃
鍵が回り開錠された玄関の扉が開いた。
「おおい、ただいま莉子いないのか?」
普段より早く帰宅した直也は真っ暗なリビングに足を踏み入れた。そこに莉子の気配は無く夕飯の準備をした形跡もない。洗濯物が庭の物干し竿で風にはためいていた。
「あぁ、そうだ遠藤さんと出掛けるって言ってたな」
直也は洗濯物を取り込むとソファに置きタオルを畳み始めた。壁掛け時計の秒針は17:30、なにか食材を買い忘れて出掛けた風でもなく今朝「帰宅が遅くなる」とも言ってはいなかった。
(・・・・変だな)
直也は携帯電話をマナーモードにしていた事を思い出しビジネスバックから取り出すと暗証番号を打ち込んだ。暗証番号は莉子の誕生日、0730、7月30日だ。LINE画面を開いてみたがメッセージは届いていなかった。
<ただいま帰ったよ>
スタンプとメッセージを送信したが既読にはならなかった。
(・・・・・・)
ふとなにかを思い付いた面持ちの直也は階段を上った。心臓の音が耳にうるさい。息を大きく吸って軽く吐くを繰り返した。祈るような思いだった。体調を崩した莉子がベッドで休んでいる事を願った。唾を飲み込んだ。ドアノブに手を掛けて扉を開けた。
「な、なんだこれ」
寝室のベッドの上には莉子の衣類が散乱していた。ハンガーに掛かったままの物、ボタンを外して着替えた物、直也は呆気に取られた。
(と、取り敢えず)
直也は莉子の脱ぎ散らかしたワンピースやシャツをハンガーポールに戻した。ふとそこでベッドの下に赤い
「これ、は」
直也はクローゼットを見上げた。薄暗闇の中、クローゼットの前に椅子を置き背を伸ばして冬物のカットソーが入ったカゴを手で避けた。その奥にはなんの変哲もないクッキー缶が置いてあった。静かに蓋を開けると中には幾つもの古びた紙飛行機が入っている。その中に見覚えのない英字新聞の紙飛行機が混ざっていた。
(新しい紙飛行機、英字新聞)
直也は蓋を閉めるとクッキー缶をそっと元の場所に戻した。ベッドの下に落ちていたのは赤い紙飛行機、直也は破れないようにそれを開いた。
莉子 愛してる
この英字新聞には心当たりがある。莉子が骨董市で買って来たティーカップを包んでいたものとよく似ていた。直也はその場に立ち竦んだ。
蔵之介と再会してから私の中には18歳と28歳の私がいる。直也さんとの結婚生活になんの不満もない。子どももいつか自然に授かるものだと話し合い、もし恵まれる事がなければ2人で歳を重ねてゆこうと誓い合った。
ーーー穏やかな日々
それにも関わらず18歳の初恋をクッキー缶に秘め蔵之介に恋焦がれ涙して来た。
(ズルい女だわ)
私は直也さんと育んで来た夫婦としての愛情と、突然現れたかつての恋人との恋情の間で揺らいでいた。私は蔵之介に次の月曜日に会いに行くと電話をした。
(直也さんを愛している、けれど蔵之介の事も愛している)
然し乍ら初恋と美しく上辺を飾り立てても莉子は月曜日を心待ちにする不貞な女である事に変わりは無かった。
「直也さん、あのね」
「どうしたの」
「あのね」
「言いたい事があるなら言ってよ」
私の帰宅が遅れたあの日から直也さんの機嫌は宜しく無い。月曜日、直也さんに何も告げずに外出しようかとも思ったが万が一自宅に居ないと分かれば色々と勘繰られると思った。
「あのね、月曜日にスポーツジムの無料体験に行こうと思っているんだけど良いかな」
「莉子が運動なんて珍しいね、何処の」
「
「あぁ、潰れたコンビニね」
「体験って何回くらい行くの?」
「んー分かんない、体験だから2週間か3週間かな」
「分かった、
「気を付けるって大袈裟ね」
「普段運動していないんだから、準備体操は大事だよ」
「分かった」
私はスポーツジム無料体験の申込用紙に名前を書き、緊急連絡先に直也さんの携帯電話番号を記入し印鑑を捺して貰った。月曜日、蔵之介の部屋を訪れる為に嘘と本当を微妙に混ぜ合わせた。