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第21話 K

 私は10年前に引き戻されてしまった。それ以来、出勤する直也さんの唇に「いってらっしゃい」の口付けをすればその温もりの向こう側に蔵之介を感じた。「おかえりさない」と雨の匂いがする直也さんを抱きしめれば蔵之介が漕ぐ自転車のキャリアにまたがってしがみついた夏の湿り気を思い出した。


「莉子!お鍋!」


「あっ!」


 ガスレンジの上で鍋蓋が音を立て、煮汁が周囲に吹きこぼれていた。キッチンに充満する醤油の焦げたにおい。



「どうしたの、最近ぼんやりしてるよ」


「あ、ごめん寝不足かな」


「かもしれないね。昨夜もうなされていたよ」


「えっ、ごめん煩かった!?」


「それは良いんだけれど、莉子、なにか悩み事でもあるのか?」



 心臓が掴まれた。何気なく普段通りに振る舞っていたつもりだった。



「ないよ、あるわけないよ」


「そうだよな、莉子は1日中家の中だもんな」


「酷っ!」


「嘘ウソ、買い物くらいは行くよな」


「それ褒め言葉じゃないよ!」


「ごめんごめん」



 私は英字新聞の紙飛行機を手にしたあの日から直也さんの笑顔を真正面から見られなくなっていた。


(なにもしていないのに)


 2階のクローゼットに隠したクッキー缶いっぱいの蔵之介からの紙飛行機。気がつくと私は英字新聞の紙飛行機を開いていた。


(なにをする訳でもないのに)


 私は携帯電話の電話帳に蔵之介の電話番号をKという名前で登録してしまった。


6月29日 土曜日


 薄曇りの土曜日、午後の降水確率は20%と微妙だった。直也さんはリビングのソファに腰掛けると会社の接待でゴルフに行くのだと渋々準備を始めた。



「こんな天気の日に行くの?」


「仕事だし仕方ないよ」


「大変だね」


「営業は大変なんですよ」



 私は山間やまあいのゴルフコースは冷えるだろうとナイロンジャケットを畳んで鞄に詰めた。



「ありがとう」


「山の上のゴルフ場は寒いからね」


「さすが莉子、優しいなぁ」


「優しいでしょ」



 玄関先で送り出す「行ってらっしゃい」の口付け。私を抱きしめた直也さんの腕の力をいつもより強く感じた。手を振る日常にひらりと飛んだ紙飛行機。微妙な心の騒めきを攪拌かくはんする様に私は洗濯機を回した。


(なんだか疲れた・・・掃除機は月曜日にしようかな)


 確かに直也さんが心配する通り蔵之介の姿を見てから眠りが浅い。夢の断片で16歳の蔵之介が私に笑い掛け、私はその手を握った。


(なにを考えているのよ)



ピーピーピー



 洗濯機が仕事を終えたと私に告げたが重い腰はソファに沈み込み立ち上がる事が出来なかった。




気付くとリビングテーブルに読み掛けの新聞紙が広げられていた。


「もう、ちゃんと畳んでっ・・・・・て言ってるの・・に」


 私の目はイベント告知のコーナーに目が釘付けになった。そこにはフリーマーケットの開催日と開催時刻が掲載されていた。


(・・・フリーマーケット)


 開催日は今日と明日で開催時刻は10:00から16:30、壁掛け時計は9:00を過ぎたところだった。私は弾かれる様にソファから立ち上がり洗濯機の蓋を開けた。


(今からなら間に合う!)


 直也さんは「今度は俺も骨董市に行ってみたい」と言っていた。明日は直也さんがいるから駄目だ。もし蔵之介に出会でくわしたら私は平気でいる自信がない。


 (今日しかない)


 洗濯物を籠から取り出す事すら億劫で、皺を伸ばす時間すらもどかしかった。私は身なりを整えると白いシャツとジーンズに着替えてパンプスを履いた。


(・・・・あ!)


 蔵之介ともう一度会えたら話し込んでしまうかもしれない。リビングに戻った私はメモ帳にボールペンを走らせた。


< 友だちと会うので帰りが遅くなるかもしれません >


 そして玄関の扉を閉めた。

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