――あれは。
どこから来るんだっけなぁ。
樫本は誰に聞かせるでもなく、一人呟いた。
夕暮れの公園。周囲には巨人のような団地が立ち並んでいる。夕日による陰影が、それらを一層宵の口に相応しい不気味なオブジェとして強調していた。
――あれだよ。
樫本は錆びたブランコに座り、少し揺らしながら呟き続ける――聞き取り辛く、掠れたその声は呪詛めいており、人が聞けば樫本の今までの人生に思いを巡らせてしまいそうなほどに鬼気が迫っていた。およそ、人間が呻く声とは程遠かった。
――何時。
来るんだ。
膝の上で組んだ指を神経質そうに動かしながらまた、呟く。
それは邪宗の僧の組む印のようでもあり、神経質の極みが発散されているようでもあった。その蠢きとは裏腹に、樫本の視線は俯き地面を眺めたまま、固定されている。
三十男が夕暮れの公園に一人。ブランコを揺らし呪詛を吐き続けている。
おおよそ、正調な世界のしらべとはかけ離れている光景に、誰もピントを合わせようとはしない。
樫本は、一人だった。生まれてからも、恐らくはこれからも。
――あれが来れば。
あれさえ来れば。
そして、一陣の風。それは魔風なのか、ごぉっという音が後を引いて唸った。
凶兆。
明らかに何らかの兆しであるその風を意に介するでもなく、樫本は呟き続ける。
――来るはずなんだよ。
必ずなぁ。
数日前、樫本はふとたどり着いたネット通販を業務とする書店から、一冊の本を購入した。
魔書と批評されていたその本を買ったのは、暇潰しだったのかも知れないし、現実逃避だったのかも知れない。そもそも現実に対する当事者感が希薄で、うつろに生きてきた樫本にとっては、その本に特別な感情は無かった――はずだった。
だが、それを読み終えた樫本の顔には嗤いが貼り付いていた。
その本に書かれていた事を試してみようという、無邪気に邪悪のナタを振るう子供のような意志が表情に滲んでいた。
そして。
樫本は。
試し、実行した。
警察の捜査の手が伸びてくるのも時間の問題だろうと確信していた。樫本は、本に書かれていた邪悪な行為を――本当に実行したのだから。
戸惑いも迷いも無かった。
樫本は機械的にそれを実行し後は待つだけ、となった今、むしろ身軽さを感じていた。
――早く来いよ。
呻く。
魔の兆しは、先程からこの公園――樫本の周辺に頻発している。
――俺は。
成功したはずなんだよ。
樫本は本に書かれていた事を忠実に実行した。およそ、人間の倫理観では許されない行ないを。
後は待つだけ。
アトハマツダケ。
夕日が沈むのは早い。
巨像のような団地群に遮られた夕日はもう半分消えかけている。
暗闇がどこからともなく吹いて、樫本の身体を、存在を、纏ってゆく。
闇は侵触する。
身体の中が染まってゆき、それは脳髄の奥の暗闇と溶け合い、混ざる。
隔世に生きるに相応しく人を変えてゆく。
そして樫本の頭の中に、けものの咆哮が――響いた。
――来るか?
樫本は視線を上げた。そのまま対向にあるベンチに視軸を遣る。
――何かが。
何かではない。
――あれが。
現れそうだ。
陽は沈み、暗闇が世界を支配している。にも関わらず、樫本には――見えている。
否。
本に書いてあった事を実行し、人間である事を辞める調印を捺してしまった樫本は、最早――人では無かった。
故に、暗闇の中が、見える。
ここが新たな自分の世界。
闇に抱かれて生きる第一歩として、樫本は――待っていた。
――来い。
――来い。
――来い!
樫本は願った。呪いと表裏一体の願いだった。忌まわしい視線で、ベンチの方を睨めつけた。圧力で眼球が飛び出しそうだった。呼吸も忘れていた。
ベンチに、影が横たわった。
何時から居たのか、それとも今現れたのか、よく分からない影が。
だが、樫本には、それが何かよく分かっていた。
――来た。
樫本がずっと願っていたもの。
あの魔書に書かれていたもの。
自分を隔世の生物にしてくれる、案内者。
やっと、それが現れたのだ。
自分の人生はこの対面のためにあったと言っても過言ではない。樫本は最早黒目だけになった目玉でそれを見、その姿を確認した。
――獅子の胴体。
――毒蠍の尾。
そして。
――老人の顔。
魔書の内容を実行し、やっと現世に現れたもの。
それは、樫本との契約のために現れたもの。
樫本はブランコからよろりと立ち上がる。
ふらふらとそれの方に歩いてゆく。
老人の頭部から、現世のものではないことばが発せられた。
樫本は、最早現世のものではなくなったことばでそれに返答する。
すべては終わり、この日、樫本は世界の存在を過去のものに変えた。