海辺の琥珀色の町にぼくは暮らしている。
そこは決して住みよい町ではないけれど、住みよい町に住む自由はぼくには無くて、ただ、惰性のままに生き、そして死ぬつもりだ。
いずれ、死ぬつもりだ。
――でも。
こんな町でも、たまには面白い事がある。
ある日、暇に飽いたぼくは海辺に散歩に行き、黒い貝殻を拾った。それはお月さまの黒目がこぼれ落ちたように綺麗で、でも醜くて、拾わずには居られなかったし、持って帰らずには居られなかった。
腰をかがめて貝殻を拾う時に、遠くから浜辺警備隊が何か叫んでいたような気がするけど、いずれ死ぬんだと思うとどうでも良く、ぼくはそいつらを無視して帰った。
――ポケットに。
黒い貝殻が、一枚。
その事実が足取りを軽くさせた。鏡屋の前を通り過ぎて、へんてこな兎を売っている兎屋の前まで三十分とかからず到着できた。店先のむくれた顔をした兎がじっとぼくを見つめている。かわいそうに。今日はまだおやつをもらっていないのだろう。
今度にんじんを持ってきてあげると頭の中で約束して、大梯子を登ってぼくのアパートにたどり着いた。
いずれ死ぬから整理整頓なんかどうでも良くて散らかりっぱなしの部屋だけど、黒い貝殻を置く場所は綺麗にしておきたくて、服や紙くずをどけると、比較的新しい写真誌の表紙の上に黒い貝殻を置いてみた。
見れば見るほど綺麗で醜くて、それはあっという間にぼくの部屋の主人に、いや皇帝になった。貝殻の独裁は続いてぼくの部屋はあっという間に綺麗になったし、貝殻は箱屋で買ってきた高い木箱の中に鎮座するようになった。
いずれ死ぬけどそれまで貝殻を愛でる事ができると思うと、嬉しくなった。
嬉しくなったから、大抵の事には困らなくなったし、笑って許せるようになった。
――だから。
ぼくのワンルームの部屋。玄関横の台所に、バレリーナが座り込むようになっても困らないし、許している。
白いバレリーナは黒い貝殻が欲しそうだった。本人が言ったわけじゃない。ぼくが勝手にそう思ったのだ。
だから、わざと関係ない事を訊いてみたりした。
――レモネードに似合う中央の楽団は?
――象を見た人と触った人と匂った人の感想の違いは?
――いずれ死ぬけど、何でみんな嬉しそうに死んでいくの?
バレリーナはぼくの顔を恨めしそうに見るばかりで返事はしてくれない。
でも、バレリーナに手を出そうとは思わない。ぼくの部屋、貝殻の独裁下に現れたからには、それはきっと意味がある存在なのだ。
いずれ死ぬけどそれまでの同居人。
バレリーナはいつも膝を抱えて台所に座っている。格好はバレリーナだけど踊りはしないし、不思議と彼女が踊るイメージも持てなかった。踊らないから、ご飯も食べないのだろう。
貝殻を拾って、バレリーナが居着くようになって、半年過ぎた。
ぼくは日課の貝殻鑑賞をするべく木箱を取り出して、鍵を開けようとした。
その時、バレリーナが唐突に――叫んだ。
ハレルヤ! と聞こえた。
ぼくはものすごくびっくりして、木箱を取り落としてしまった。
慌てて木箱を拾うと貝殻を確認する。
――貝殻は。
砕けていた。
とても残酷なヒビが入って、割れて、断面を触ると黒い粉が指に付着した。
ちょっと困った。
いずれ死ぬ予定が早まって、もう生きている意味が無くなった。
バレリーナはどうするんだろう。
玄関横の台所に視軸を遣ると、バレリーナは膝を抱えて座ったまま、少し震えていた。
何もしないよ。
何をすればいいのか判らないんだから。
そう声を掛けても、まだバレリーナは震えている。
――どうすれば。
どうしたっていずれ死ぬんだけど、それは今ではないのでどうにかしないといけないし、あの黒い貝殻は残骸と化してしまったし、バレリーナは震え続けている。
――そうだ。
貝殻は海に返そう。そんなひらめきを得て、ぼくはジップ型のナイロン袋に丁寧に貝殻の残骸を入れると、それをポケットに突っ込んだ。せっかくだから、バレリーナも連れて行ってあげよう。
バレリーナはどこから来たんだろう。ぼくはいずれ死ぬけど、バレリーナはそうじゃないかもしれない。
貝殻は海に返さなくちゃ。バレリーナを返す場所は無いかもしれないけど、こうなった以上はどこかへ返さなくちゃ。
これは海辺の琥珀色の町に暮らしているぼくが死ぬまでの、一篇。