夕暮れの禍々しい茜を、病室の窓からぼんやりと眺めていた。
眺める事に飽きたら、カーテンを引いて差し込む光を断つ。現実に引き戻される。
少し濁った乳白色の蛍光灯。無機質な白い壁。軋むベッド。
――それが、ぼくの。
現実。
ぼくが居る病室。
テレビもスマホも無い。ぼくの他には誰も居ない。静寂から寂滅に静かに流れゆく空間。
入院した時から、何もできないでいる。正確には、何もしないでいる――最低限の栄養を摂り、呼吸をして、ただ、生きているだけだ。
――何も。
考えたくはない。考えるのは億劫で、とても破滅的だ。
――だから。
唐突に話しかけられても咄嗟には返事はできない。
ぼくのベッドの横に、いつの間にか立っていた少女。
銀色の長い髪の少女。
蛇の鱗を持った少女。
その少女に話しかけられた時にも、ぼくは咄嗟に返答はできなかった。
少女は、爬虫類のような何を考えているか判らない目でぼくをじっと見つめながら、今言った言葉をもう一回繰り返した。
(全部、月の裏側に隠しているの)
極めて抑揚の無い声で、少女は囁いた。
ぼくを急かすでも脅すでもなく、淡々と。
ぼくは、どう返事したのもかと考えながら、少女の背後の窓に視軸を遣る。自分で閉めたカーテンが、外界に逃げる事を拒否していた。
少し、目を閉じる。そして開く。
少女は消えていた。
病室の消灯時間は早い。どう時間を貪ったものか。そしていつの間にかぼくはまどろみの中に居る。
――子供の頃には。
虫や花を踏み潰すのが好きだった。
そんな記憶をまさぐり続けるような夢を見ていた。
(月の裏側に全部持っていったの)
墨を流したような真っ暗な夜。窓越しに星々を眺める内にことばがどこかへ消えてゆく。その永遠にも煮た一瞬から引きずり戻されるように、背後から声がした。
あの少女がまた病室に立っていた。
感情の篭っていない声で、ぜんぶ、もっていった。と、そう言った。
同時に、何かがきらりと煌めいた。反射的に窓から夜空を見上げた。尾を引いて落ちていく流れ星。それが消え去った時、少女はまた消えていた。
そして思い出す。
あの日はもう名前も憶えていない誰かの葬式だった。安らかな顔をして眠っている遺体。ぼくはそれが羨ましかった。その羨望がずっとずっと記憶の底に澱んでいて、中学生になった時に――。
――ぼくも。
遺体になろうとして。
ぼくがこうして長い間病室に居るのは、その名残りだ。
今日も現れた少女に、そんな事を話した。何のリアクションも無かった。ただ、少女はぼくの顔をじっと見つめている。
(月の裏側には、もう行けない)
少女はそう告げた。
刹那、喪失を感じた。
とても大切な願いと、とても大切な祈りがすれ違ったような感覚。
そして少女が消えたこの病室に向かって、足音と、何かを話す声が廊下の方から聞こえてきた。もう大丈夫でしょう。とか、退院できます。とか、そんな会話が漏れ聞こえてくる。
足音はぼくの病室の前で止まり、ドアが開く。
主治医とぼくの後見人が入ってきた。何か言っているがよく理解ができない。
何でもないよ。大丈夫だよ。と適当に相槌を打って、ぼくは退院の支度を始める事になった。
元々ぼく一人いか居なかった病室はがらんと寂しくなって。すべてが失われたようで。ずっと見上げていた蛍光灯も、不思議な鳥の羽根のかたちに似た壁のシミも、塗装の剥げかけたベッドも、これからすべて失われてゆくように思えた。この病室から消えるのはぼくなのだけど、ぼくが長年過ごしていたこの世界は、ぼくが居なくなれば消えてしまうのだろう。
(またね。月の裏側で)
退院手続きを終えて、迎えの車まで後見人に連れられてゆく途中、背後から少女の声がした。
やがてぼくは車中の人となり、落陽を眺めながら帰路に着く。街の灯りが窓越しに流れてゆく。
――そろそろ。
月が見える時間だな。
夜空に思いを馳せて軽く溜め息を吐くと、運転している後見人が心配そうにちらりとぼくを見た。