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『腐海、日曜日の記録』

 日曜の夜半、軽自動車を走らせていた。


 郊外の通りには人影はまばらで、ほとんどの人々は月曜日に備えてもう眠っているのだろうと推察された。


 エンジンの低音だけが静かに唸る車内で、わたしは黙ってハンドルを握る。


 そして赤信号。


 やがて青に変わる。


 停止と発進を繰り返しながら、昼間とはすっかり表情を変えた街中を走る。


 ――今日は。


 疲れた。


 だが疲労ゆえに張り詰めた神経は昂ぶったままだ。もういい時間だが、眠気など感じない。


 ――いや。


 ここまで来て、睡魔に屈するなど。


 そこそこな規模の地方都市とは言えど、郊外の道路ではアスファルトの凹凸をタイヤがよく拾ってしまう。疲労の溜まった身体に車の振動が被さり続けると、やや嘔気を催してくる。


 構わない。


 我慢できなければ、車内で吐瀉物をぶちまけるつもりだ。排泄だって済ませる。


 ――ただ。


 煙草が無いのは残念だが。


 ニコチン中毒者は一度意識すると欲求に抗い難くなる。いつも喫っていたセーラム・ライトの味を思い出してしまった。


 それはもうどうしようもないので、別の事を考えることにした。


 わたしは高卒後、やっと面接に通った食品工場でパートをしていた。ちょうどその頃から喫煙を始めた。単調でつまらない労働や辛うじて生きていけるだけの時給、不快な人間関係から目を逸らすための現実逃避だった。特に趣味も恋人もなく、今日に至るまでの人生は灰色だった。


 思い出したくも無いのに、記憶は次々と濁流と化す。涙が、溢れる。


 ――何で。


 こんな事態に。


 嗚咽しながらハンドルを握る手が痛かった。アクセルを踏み込む足が熱かった。


 先日、母がわたしのアパートを訪れてきた。


 週休一日のわたしにとって、不仲な母に日曜日を唐突に潰されるのは不愉快でしかなかった。


 母はわたしを心配して来たのではなく、顔を見たくて訪れたのでもない。ただ、金の無心にやってきただけだった。


 ――そんなことは知らない。


 ――新しくできた男に借りろ。


 声を荒らげて、ずいぶんと母を罵った。


 あなたを産んでやったのは誰だと思ってるの。そんな事を言われて元々気が短かったわたしの理性は弾けた。


 揉み合いになり、髪の毛を引っ張り、台所のシンクの角に思いっきり母のこめかみの辺りを叩きつけた。


 急に母の身体から力が抜け、ぐにゃりとする。


 ハッとなって髪の毛から手を離した。


 どさり。


 母の身体は崩れ落ち、そのままぴくりとも動かなくなっていた。


 ――やってしまった。


 殺ッテシマッタ。


 その場から意識だけがゆっくり離れていくような感覚に襲われる。当事者なのに非現実的な視点でわたしはわたしを認知していた。


 ――だが。


 何分ほど母の死体を目前に立ち尽くしていたのだろう。永遠とも思える数分。或いは数分とも思える永遠。


 その奇妙な時間を断ち切ったのは――。


 ――母の。


 ――骸と化した母の。


 声だった。


 どうして。


 ――ドウシテ?


 こんな事をするの。


 ――コンナ事ヲスルノ?


 びくびくと少し震え、ぬるりと死体が立ち上がろうとする。


 わたしの表情は凍りついていたのだろう。声も出ず、ただそのグロテスクな起立を見ていた。


 顎をゆっくりと上げた母がわたしを見た。白目が剥かれており、そこに命の火は灯っていない。


 どうしてこんな事をするの。


 また死体がそう言う。あまり唇を動かさずに、喉の奥をぐるぐると鳴らしながら。


 わたしは気づけばアパートから飛び出して車を走らせていた。


 逃げる事だけを考えていた。


 死体から。


 警察から。


 人生から。


 世界から。


 足が少し震えており、唇が痙攣しているのが分かる。


 日中にも関わらず人影が少なかった。


 どれほど車を走らせたのか、夕刻が迫っており、そして――。


 ――街中には。


 ゆらゆらと。


 がくがくと。


 ――死体たちが。


 徘徊していた。


 わたしはどこまで走ったのだろう。山道を超え、県境も超えた。


 文明の灯はさほど残ってはいなかった。この先、手入れする人間も居なくなった建物は朽ち行き、やがて電気も止まるのだろう。


 もう三日以上車を走らせている。


 可笑しい事に、ガソリンスタンドやコンビニはまだ営業している所もあったのだ。


 ――死体が。

 動き出してない場所。


 でも、死者が蔓延するのも時間の問題だろうという予感があった。


 現実が死者の世界へと変貌する序曲をわたしは今、聴いている。


 連日の車中泊で痛む身体に力を込めて、世界の終焉を想う。


 それはドラマティックなものではなく、つまらない人間であった母を殺した事から始まった。


 何時まで、逃げ切れるのだろう。


 世界が中途半端な内に逃げ切りたい。完全に死者の世界がおとなえば、わたしは――。


 フロントガラス越しに次の県境である峠を眺める。この先はまだ生者の世界なのだろうか。


 ぽつり。


 ぽつり。


 雨が降ってきた。


 ワイパーを動かす。


 雨水で一瞬煙って消えた世界は、また鈍くわたしの前に現れる。


 腐海と化しゆく世界が。

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