ただ、夢が覚めるのを待っていたのだと思う。
黒い礼服姿のわたしには顔が無く、また、わたしの母親にも顔は無かった。四方には年季の入った飴色の木柱。そんな和室内で、ひょっとこと狐面の男女が正座している。それが誰かの通夜であるとは何故か分かっていた。
なぜ、こんな夢を見たのだろう。そして静かに夢が覚めるのを待っていたのだろう。
この前、仕事帰りに和装の老人男性を見た。
女物の着物に笠という出で立ちで、しずしずと駅前を歩いていた。
――何かの催し物だったのか。
あれは何だったのだろうと思うも、仕事に忙殺され何時しかその事を忘れていた。
――だが。
そのころから、よく夢を見るようになっていた。
正確には、起床しても夢をはっきりと記憶している。ベッドから出て、着替えて出社して、帰宅して、その日の眠りに就くまで、1日中──覚えている。
――そして。
次の日、また違う夢を見る。上書きされた夢は、また次の眠りに就くまで鮮明に脳内に焼き付いている。
――ああ、今日も。
――明日も。
――明後日も。
夢を忘れられないまま、日常を過ごしていた。
現実と夢。並行するふたつの世界を抱えるには、わたしの許容量は少なすぎた。
やがて、幻聴に悩まされるようになった。
金属音や機械音が時折脳内で鳴る。
心療内科に通院するようになり、夢を忘れられない事も主治医に相談した。返事は酷くそっけないもので、夢の事よりも幻聴の方を問題視しているような口ぶりだった。
それから一年ほど経って、わたしは会社を辞めた。一身上の都合と申し立てたものの、精神的な疲弊からだった。最後に出社した時には、同僚にも、かつてわたしと不倫関係にあった上司にも、顔が無かった。
街を歩けば何かが聴こえた。
家に帰れば影が固まっていた。
五感のおかしさを抑えて冷静さを保とうとする。何回その行為を繰り返したのだろう。
体重がかなり増え、外出する事も少なくなってきた。
世界から段々と色が消えていった。
――わたしが。
何をしたというのだろう。
自問自答しながら、一日、また一日と過ごしていく。
やがて買い置きのインスタント食品や冷凍食品も、スナック菓子も無くなって、買い出しにでかける必要が生じてきた。
どのようにしてベッドから立ち上がったのか、着替えたのか、わたしは道路をふらふらと歩いていた。
暑いのか、寒いのかも判らない。薄手のカーディガンを羽織っただけの格好だが、もう寒暖も感じない。
すれ違う人々には相変わらず顔が無く、道沿いの塀にはスプレーで何かの記号が描かれていた。そして、目的地のスーパーマーケットは跡形もなく消えており、ただ荒れた空き地が広がっていた。
呆然とする事も、驚く事もなかった。
ただわたしはそこに足を止め――。
――世界を。
――現世を。
斜めに視る。
真っ直ぐに見ていた世界は最早消えてしまった。その証拠に、毎晩憶えていた夢がもう現実を侵食してきている。
急速な夕闇。
やがて、喪服姿の男女が列を成して空き地に現れた。
ぞろぞろと、音を立てず、どこかから、どこかに吸い込まれていく。
――葬列。
何を葬っているのだろう。
やがて木製の棺桶を担いだ男女。
棺桶にはびっしりと墨文字で何かが書かれている。
経文ではなく、もっとわたしに訴えかける何かが。
それは、前に見た女装老人の帯に刺繍されていた漢字だとか、あの日に見たスプレーで描かれた落書きの記号だとか──わたしの日常に存在した諸々の記号が書かれている。
それはひとつの呪文となっている。真っ直ぐだった現実に、解体されて散らばっていた呪文。
――それらは今。
繋がった。
葬列が過ぎ去っていく。その背後、最後尾にわたしは続く。
現し世は夢だった。
現し世こそが夢だった。
そしてわたしは次の現実に。本来居るべきだった世界に戻る。