「この写真、■■岬に行った時に撮ってきたのよ」
そう言って梨子はぼくにスマホの画面を見せたことがあった。
ぼくは写真の専門家ではないのでよく分からなかったが、地方によくある岬の、大して面白味も無い写真のように思えていた。
梨子とは価値観が合わないことが度々あったし、夫婦となった今でも感情がすれ違う場面が多い。
だが、何故こういう人間と結婚したのだろうと思ったりはしなかった。
梨子に写真を見せられた時に、やや生返事気味に「いい写真だね」とおべっかを使ったぼくにも責任はある。
――責任。
差し出された岬の写真よりも、梨子本人――梨子の身体のほうが何倍だって魅力的なのに、なぜ風景の写真なんかを撮ったの? 自分を撮ってもっとアピールしてよ、と、極めて俗なことを考えていた、ぼくの責任だ。
ぼくと梨子の間には子供はいない。行為をするときは避妊は完璧に行なっていた。
子供が欲しいとせがまれたことは無い。ベッドの上での梨子は従順だったし、夫婦生活に於いても比較的ぼくを立ててくれていた。
――だが。
それでも、梨子と噛み合わない時は多々ある。
会話、物の置き場所、服装、食の好み。
ぼんやりと違和感を覚えた場面は枚挙に暇がない。
中でも食の好みは特に違和感が生じる。梨子の作る料理は悪食とか不味いというわけではないが――。
――酷く。
ぼんやりと、しているのだ。
そのような噛み合わなさがまとまった結果として、夫婦生活に致命的な破綻を来たすとか、梨子に愛想を尽かすとか、終焉に向かう兆しは今のところは感じない。
――何よりも。
梨子の身体を手放したくはない。
大抵の人間が数年も伴侶と過ごせば相手の身体に飽きるものだが、ぼくは一向に梨子の身体に飽きが来ない。
ぼんやりと違和感を生じる夫婦生活の中で、輪郭がくっきりとした性生活だけには唯一ヴィジョンがある。
性戯に於いては、普段あまり自我が強くない梨子がそう挑発しているように思えるのは、ぼくの考え過ぎだろうか。
仕事から帰宅すると同時に、梨子の頭を押さえつけて口で奉仕させたこともあった。
梨子にネットショップで買った拘束具を用いて無抵抗にさせたこともあった。
それでも梨子は従順だった。
此方においで、と、ぼくを吸い込もうとする。
浅ましい獣欲の捌け口に使われていても、梨子はぼくに此方においで、と。
――だから。
ぼくは、絶え間なく夫という仮面を被り、梨子を支配し続けた。
ベッドの上でのぼくたち二人は独裁者と奴隷の関係性であったし、台所でも、玄関先でも、時には野外でも――そうあり続けた。
性交に於いては梨子に容赦はしなかった。
梨子はそれでも此方においでとその蠱惑的な肢体で語り続けた。
――そして。
ぼくは、梨子を殺そうと思った。
この性生活が終わる日など予想も付かないが、物事はいつか終わる。
交わらなくなったぼくたち夫婦に残されたものは、きっとぼんやりとした違和感だけだろう。そうなった時、この快楽の思い出も色褪せて――消えてしまいそうで。
そうなる前に、梨子を永遠にしてしまおう。
記憶として、いつまでも美しく保存しておこう。
前々から思っていたわけでも計画を立てていたわけでもなく、突発的に、衝動に駆られていた。
いつもの日常。いつもの仕事。いつもの帰宅。
今日で梨子は――。
――永遠になる。
いつか梨子に使った拘束具。それを少し応用して使えば梨子の息の根を簡単に止めることができる。
そんなことを考えながら、ぼくは食卓に着く。
梨子はぼくに背中を向けて、料理をしていた。
いい匂いがするけど、何を作ってるんだい? そう問いかけた。
「さあ。何を作ってるんだろうね」
この日、梨子は初めてぼくに歯向かい、拒絶した。