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『異人たちの夜』

 夜のとばりが世界を覆うころ、鬼の宴が始まる。


 今夜もぼくは徘徊を続けていた。


 そもそも何が目的だったのだろう――もう何のために、夜の散歩を始めたのかは思い出せない。


 ただ歩いて、歩き続けるだけの煉獄に両足を灼かれている。夜気を吸ってたましいを吐き出す。冷えた空気に奪われる体温は何らかの代価。この歳まで生きてきても人生の地獄篇からは抜けられず、只々いにしえの戯曲のように莫迦ばかを繰り返していた。


 履き古した伊太利亜いたりあ製の革靴はちょうどぼくの足に馴染んでいる。一張羅の外套は少しだけど寒気からぼくを守ってくれている。夜の街を歩くときのいつもの格好。いつもの影。


 ――いつもの道。


 寂れたシャッター街の入り口まで足が進む。それは薄暗い人工の洞窟のようでもあり、夜目に視えるシャッターのサビや剥がれかけたポスターが寂滅を感じさせた。


 今日はこのシャッター街をくぐってみよう。いたずら心にも似た発想は夜魔のささやきなのだろうか。


 真上から、真横から、真下から、怖気にも似た冷気が身体を刺して、ぼくは外套のポケットに突っ込んだ掌をぐっと握り締めた。


 歩を進める。


 サビに侵食されたアーチには『■■町商店街へようこそ』とペイントされた面白味の無い看板が掲げられている。そこから奥、空いたテナントが続々と連なっている様子は、この街のつまらなさを暗示しているかのようだ。


 往年はそれなりに賑わってもいたのだろう。やたら長々しい商店街だ。


 ――だが。


 ここに人通りがある様子は、想像できない。


 夜半、鬼の集う時間。人間は、こういう魔所に足を踏み込んではいけないのだ。


 魔所たる由縁。


 それは、そこの剥がれかけた選挙ポスターに写っている立候補者の笑顔が狂気染みているからでも、いかがわしい店が入っていたのであろう空き店舗の外壁にスプレーで描かれた小悪魔が誘っているからでもない。


 ――ここには。


 陽光が。


 ――刺すことがない。


 故に、魔所なのだ。


 採光窓が見当たらない設計。人工的な電灯の多さ。


 暗灰色をベースとした色気の無いコンクリート。通気の悪さからずっと漂っているカビ臭さ。


 すべての負の印象が、暗闇から腕のかたちをした実体を伴って伸びて来そうだ。


 夜の散歩を始めて以降、数々の魔所を歩んできた。


 鬼の時間に、魔の場所に、依存しているのかもしれない。


 目的?


 ――そんなものは。


 無い。


 歩き続けるだけの煉獄。


 こころの中の大事な何かが欠けてしまっているのだろうか。人間として生きる意味が失われてしまっているのだろうか。


 自身も、半ば鬼と化してしまっている自覚はある。しかし――。


 ――しかし。


 ぼくを人間に留めている最後のものは何なのだろうか。


 この歩みか。


 それとも夜が過ぎれば照りゆく日光なのだろうか。


 そんな事を考えながらこの死んだ商店街の中頃まで進んだ時、異物が視野に入った。


 あれは、何だ。


 少し眉間に皺を寄せながらぼくは異物を凝視する。


 何かが。


 積み重なって。


 それは小さな山だった。なだらかではなく、凹凸が禍々しく目立っている。


 本能的なものが咄嗟に頭をよぎる。


 ――あれは。


 そして本能で感じた。


 ――よくないモノだ。


 ガラクタや粗大ゴミの山ではない。もっと有機的な稜線をその小山は描いていた。


 気付けば“それ”から10メートルほど離れた所で立ち止まっていた。


 息を詰めていた。


 夜気。


 頬を掠めた冷風。


 背筋に怖気と寒気が走ったのだが、逆にそれがぼくを正気付かせるきっかけになった。


 正気は勇気への導火線となり、自分の中に少しだけ残っている人間らしさに火を点けた。


 小山の方へと進んだ。


 そして足を止めて、その全容を見た。


 人間の死体が折り重なっていた。


 労働者らしい初老、母親と娘、全裸の老人、詰襟服の若い学生。死体。死体。死体。


 死体の山だった。だが、外傷や流血は見当たらず、綺麗なものばかりだった。


 薄暗いシャッター街の中、死体たちは青褪めた表情で安らかに積み重なっている。


 ――異人たち。


 この世のものでは無くなった異人たち。


 夜空と寒気に憑かれ、鬼となった人間の――。


 ――成れの果て。


 ぼんやりとそんな事を思う。だが、不思議と非現実感に酔いはしなかった。


 踵を返す。


 今夜の散歩は、ここまでにしよう。


 明日も、夜、歩くのだから。

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