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『ふたたび“D”の出ずる世界』

 死にゆく地方の人っ気の無い海辺だった。


 ――今日、私はここで入水して死ぬんだな。


 そう思っている事は確かだが、この海辺へ至る道中の記憶はまったく無い。


 私は何者なのか。まった憶えていない。


 ただ、海は広く、海水はしょっぱく、沖に向かうに連れて、深く、深くなっていく事だけは知っている。


 ――そして。


 海は、あおい。


 この碧さに反射する陽光に照らされていると、何かを思い出しそうになる。


 砂浜にぽつんと一人で立っている自分に、掠っていく記憶。いくつか捕まえたあと、後方に去ってゆく断片。


 波打ち際まで歩を進めた。


 裸足の足元をさざ波が濡らす。


 濡れるのはさほど苦手ではない。雨に打たれた記憶の断片がある。濡れそぼって色褪せた貼り紙や郵便ポストの断片も思い出す。水に、不思議と縁がある人生だったような気がする。


 もう少し海の深い所まで進んだ。太ももの辺りまで海水に浸かった。


 不自由さと閉塞感のごときものに人としての中身を縛られているのに、足の自由まで利かなくなると、自分が壊れた傀儡のように感じてしまう。


 実際、一人で海に浸かり、何をするでもなく空っぽな自分を持て余している私など、壊れた傀儡に過ぎないのだろうけど、ただ波の音を聞いて、カタルシスにも似た浄化を微弱ながら心の奥底に感じているのは何故なのだろうか。


 身体が軽い。


 海平の彼方に視軸を遣ると、それはものすごく遠くて、手が届かない世界の果てに見えた。だが、とても大きなものを、偉大な存在を擁する用意ができた揺籃にも見えた。


 不安定な足元をぐらぐらと波に押されながら、背後では波が砂浜に砕けているのだろうと思った。今、私に見えているものはすべてが広くて大きい。感じられるものは海水の冷たさと、その生命のスープに混ざっている幾億もの鼓動。


 何かの記憶を思い出す。断片的に、映画のフィルムが逆回転するかのように。


 かつて双子の妹が居た。


 渇水に街中が怯えている夏だった。私は妹と商業モールの屋上に居た。燦々と輝く太陽に照らされながら、妹は嬉しそうに何かを話していた。多分、ひとをころした、と、そんな事を喋っていたのだと思う。


 ――だれをころしたの?


 臆するでも驚くでもなく私はそう受け答えていた。そう受け答えをせねばならなかったのだという強迫観念じみたものがあった。


 記憶は続いて流れる。


 妹はいつだって私より恵まれていた。この世界は恵まれている人間にしか存在を許していない。恵まれていない人間は存在を許されない。つまり、私は世界から存在を許可されていなかった。


 商業モールの屋上駐車場は車や排気ガスの熱でとても暑くて、額に汗を滲ませながら話を続ける妹の顔がグロテスクに見えていた。


 妹がころしたのは■■■■の■■■だった。ああ、と私は曖昧に頷いた。心を閉じて、恵まれている自分自身を捨てて、人間が、人間でなくなってゆく段階を刻む妹を視野に捉えながら、私はどうしていたのだろう。


 妹の最期を記録した記憶の断片を掴んだ。


 この街に渇水は起きてしまった。妹はそれ以降、オカルティズムに傾倒した。元々スピリチュアル好みだったのだけど、占いや書物に派手に散財するようになった。昼夜問わず何度でも口にしてはいけない名を口にし、終末思想に染まっていった。恵まれた人間という祝福をひとをころした事によって、いや“あれ”に関わった事によって失った妹は、もう世界から存在を許可されてはいなかった。


 妹が海で溺れて死んだとの報せが入ったとき、遅かれ早かれそうなるとは分かってはいたのだけど、喪失感というよりも世界のシステムが機能している安寧を、どこか、脳味噌の奥深くの暗い部分に感じていた。


 恵まれている妹が“あれ”を殺して世界の恩寵を失った。


 ――ただ、それだけ。


 代わりに私が恵まれた存在になるだとか、勝手な都合で世界を律する解釈は持ち合わせていなかった。


 その証拠に私は妹を失ってから人間らしく、とても人間らしく空っぽになってゆき、記憶がひとつずつ消えていった。


 ――そしてこの海にたどり着いた。


 大きく深呼吸をする。海の、生命の生臭さを吸う。


 このまま入水して死のうとする私を“あれ”に関わった者の縁者に対する呪いの成就だと見る人も居るのだろう。


 確かに呪いは成就したのだろう。


 ――そして。


 私は自分のお腹を両手で押さえた。この海にたどり着き、海水に浸かってからの僅かな時間に膨れたお腹を。


 ――産まれる。


 妹が“あれ”をころした事によって“あれ”は再誕する。私は妹の共犯者なのだろう。やがて海の支配者が――。


 ――偉大なる“D”


 世界そのものを擁する海平を目にしながら、流れのままに死んでしまった妹を思い出す。その記憶に浸りながら、私はまだまだこの海に居よう。夕暮れには産まれるだろう。その時の海は、きっと少し赤く見える。

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