その女性と知り合ったのは、『ミスト』という名前のマッチングアプリだった。
特に寂しかった訳ではなく、暇にかまけていた訳でもないのだが、僕も24歳の男性相応の欲求を持て余している所があった。
しかし、テレビやネットで派手に広告を打っているアプリに重課金するのには少し二の足を踏んでしまい、結果、多分どこかのサイトで見かけたのであろう小さい広告から、この『ミスト』をスマホにインストールするに至っていた。
だが、今ではそれを僥倖だと思っている。
この『ミスト』は霧に覆われた中から伸びてきた手を掴むイメージ――それを「マッチング」だとする少々変わったコンセプトを念頭に置いて運営されている。
匿名性が非常に高く、プロフィールや顔写真アイコンで相手を品定めすることはできないし、基本は相互のメッセージやその裏を読むのがコツとされる。当然、男性も女性も半ば霧の中で疑心暗鬼になりながらも出会いを求めることになり、それがどういう結果をもたらすことになるか、各種のSNSやブログではぼちぼちと憶測に基づいた感想が書かれていた。
そんな変わったアプリだが、ゲーム会社の零細協力企業で趣味と実益を兼ねて働いてる僕としては、その辺鄙さが心地良かった。
――何よりも。
『ミスト』で、カナさんと知り合えたのだ。
数文字しかつぶやけないテキストボックスが、ログイン中のユーザーの数だけふわふわと画面上を泳いでいる。『ミスト』では、それをタップしたらテキストベースの会話が開始となる。
僕は何度か返事の返って来ないタップを繰り返した後、何となく『ちはや』という上品そうなハンドルネームのつぶやき――「青色とは幼児みたいなもの。では青色の中身は何色なんだろう?」――をタップして挨拶を送ってみた。
すぐに返事は来た。
僕は当たり障りの無い自己紹介をし、『ちはや』さんは自己紹介代わりに好きな音楽ユニットを教えてくれた。聞いたことがない外国のユニットだったが、即座に検索してみると日本のサブカルチャー方面では有名なユニットであり、オタク気質の僕は少し安心すると同時に、まずカルチャーの話を打ち出して僕の文化指数を計ろうとする『ちはや』さんへの興味がますます燃え上がった。
僕はありったけのサブカル知識とオタク知識をトークに乗せて『ちはや』を嬲った。『ちはや』さん、とは呼ばず、気付けば呼び捨てになっていた。
『ちはや』も負けじと応じてきて、「すごく話が合いますね」とチャーミングに笑って――スマホ越しなので顔は見えないし、そもそも顔を知らないのだが、確かに彼女は微笑んでいる気がした。
毎日何時間も『ちはや』と話した。
もうお互い建前は捨てて、「会いたい」「いいよ?」と文字上で囁き合ったり、異性間ならではのあまり表ではできない話もしていた。
そして別のトークアプリに移動し通話をして、私の本名はカナだよと教えてもらった。本名を教えてもらったお礼に奢るから、と僕は次の日曜日に会う約束を取り付けた。
カナさん――まだ会ってはないので呼び捨てにはできない――はパラノイド・ブルーというカフェに行きたいと言い、聞いたことがない店だったが検索するとそんなに遠くではなかったので、僕も快く承知した。
――そして日曜日。
僕はパラノイド・ブルーに到着するなり、その深い青色の建物に目を奪われた。安い塗装なのだろうけど、灰色や臙脂色のビル街でこの青々しさは一際目立つ。
「柿のタルトを注文して待っててね。この店の名物だからそれを目印にあなたを見つける」
カナさんの言っていたことを思い出す。
緊張していないと言えば嘘になる。が、僕は一呼吸置くとドアを開いた。
いらっしゃいませ、と女性の声がした。お好きな席にどうぞ。と続く。
――青灰色の店内。
深い青の壁に薄い青の装飾、灰色のテーブルに青いグラス。テーブルが灰色なのは、青がより目立つようにするための配色なのだろう。
青。青。青。
正直圧倒されながら僕は卓上ベルを鳴らし、柿のタルトとオリジナルブレンドコーヒーを注文した。
注文を取りに来たホールスタッフの若い女性が、ちら、と僕の目を見た。
「柿のタルトとブレンドコーヒーですね。かしこまりました。少々お待ち下さい」
――何だろうか。
違和感を覚えた。
突然、ポケットの中のスマホが振動して通知があることを僕に知らせた。
――カナさんだ。
そろそろ到着するよ。楽しみだね。トークアプリにそうメッセージが来ていた。
今の違和感のことなど薄れ、カナさんに思いを馳せた。ここパラノイド・ブルーから徒歩圏内に、ホテルがあるのも――下調べしていた。
身体の中心が少し熱くなり、僕は軽く唾を飲み込んだ。
「お待たせいたしました」
ハッとした。
先程のホールスタッフがいつの間にか注文した品を運んできていた。
「ご注文は以上でよろしいでしょうか」
はい、と答えるとホールスタッフは踵を返してカウンターに帰っていく。
――柿のタルト。
――違和感。
――違和感の正体。
柿のタルトは、赤い。
青色の店内に相応ではなく、でろでろと赤いのだ。
目の前に置かれた柿のタルトは違和感どころではなく不協和音を奏でていた。
何で、たかがデザートにここまで狂いを感じるのだろう。当然、手などつけられない。
「○○大学出身なんだってね」
「市議の○○さんのご出身ね」
隣のテーブルに座っている老人夫婦の会話が聞こえてきた。
ちら、と視軸を遣ると、老夫婦はにこやかに談笑している――のだが、○○大学は僕の出身校であり、市議の○○さんは僕の居住区から出馬して当選した人だ。『ちはや』ことカナさんとその話をして、地元が近いとお互い分かったのだ。
ホールスタッフ同士も談笑している。
「最近キャスローの曲をサブスクで聴いてて」
「キャスローって知らなくてさ。さっき検索して動画見たんだけどスエードのデザートブーツがかっこよかった。」
ゾッとした。
キャスロー。検索して動画を見る。デザートブーツ。
――これは。
以前、『ちはや』に『ミスト』で話した内容と、まったく同じだ。
「オタクーー」と叫びながら僕のテーブルの横を家族連れ客の子供が駆けていった。
「もう元気すぎる子は手がかかるわ」とその母親が言う。『ちはや』は前に「元気すぎる男性は苦手」と言っていた。
――カナさん?
――カナさんは?
ドアの方を振り向いても誰も入店してくる気配は無い。窓越しにテラス席を見ても誰も居ない。
テーブルの上には手をつけていない柿のタルトがでろでろと赤く濡れている。
「知ってるからね」そう聞こえた。
ホールスタッフの会話が漏れ聞こえてきたようだった。
スマホが振動した。
戦々恐々として僕は通知を見た。
トークアプリに、もうついてるよ。と一言、メッセージが来ていた。
もうついてるよ。
店内を見回す。カナさんらしい人は居ない。
僕が入店して以降、新客など入ってきていない。
「まだかな!」
先程、店内を走っていた子供が大声で叫んだ。
「すごく話が合いますね」
老夫婦がどういう文脈で言ったのか知らないが、そんなことをやや大きな声で言った。
卓上の柿のタルトを見遣る。
それは人間の胎内で脈打つ心臓のように、どくどくと蠢いていた。
店内の青い壁には静脈が走り、柱は白骨になっていた。キッチンは胃袋、ホールスタッフは細胞に。
それはカナさんの胎内だった。