午後の数学の授業はサボることにした。
私は教師が来る前にこっそりと教室を抜け出し、そして「近寄るな」と口うるさく言われている旧校舎内を散歩していた。昼日中なのに建屋内は薄暗くて、目が慣れるまでに多少の時間を要した。
そして、学校の近所には良い匂いのするチョコレート工場がある。春風に運ばれてくるチョコレートの香り。その良い匂いは私の食欲を刺激し、昼食としてサンドイッチを放り込んだだけの胃袋がぐぅぐぅと鳴き始める。
シーンと静かな旧校舎内の廊下に、私の上履きの音だけが響いている。チョコレートの匂いがほのかに漂っている。このミニマムな私の王国に存在するのは私一人。私を肯定できる私だけが、居る。
埃まみれになった資料室の前に足を止めると、私は目を閉じた。
こうして目を閉じると色々と思い出す。悲しかった事。辛かった事。苦しかった事。しばらく頭の中で思い出を反芻すると、動けなくなってしまう。様々なトリガーによって襲い来るこの現象は“フラッシュバック”というらしい。病院の先生がそう言っていたし、母親も深刻な顔をしてそう言っていた。
――だんだん息苦しくなってきて、私は目を開けた。
廊下の向こうに、誰かが居た。
誰なんだろう?
じっと目を凝らすと、そのだぼだぼとした服装に、白塗りのお化粧に、三角帽子に、見覚えがあることに気付いた。
――道化師の人だ。
子供のころに何回も読んだ本に出てきた道化師。物語の中でしか知らない道化師が今、私の視線の向こうに立っている。
■■■ちゃんだね?
道化師がそう喋ったように思えた。
私は、はい、と心の中で返事をする。その瞬間、チョコレートの匂いが濃く立ち込めたような気がした。私は恐る恐る、道化師のほうに歩いていく。一歩、五歩、十歩。
そして、道化師の目の前までたどり着いた。
すとん。
私は道化師のだぼだぼの衣装のお腹の辺りに顔を埋めた。こうすることが懐かしくて、とても大切な気がしたから。
君をお迎えに来たんだよ。
道化師が落ち着く声でそう言った。
小学校低学年のころから、私は変わった子だと言われ続けていた。
本ばっかり読んで。お絵かきばかりして。友達も作らず。情緒も安定せず。両親も教師も同級生も私を嫌らしい目で見て小声でヒソヒソと何かを喋っていた。私は私の時間を大切にしたかったから特に気にしないように努めていた。いつもいつもチョコレートばかり食べていたような気もするし、綺麗な茜色の夕焼けを見ながら泣いていたような記憶もある。
何にも憶えてなくて、何でも憶えている。
外のチョコレート工場でたくさんの美味しいチョコレートを作っているのだろうか、良い匂いがずっとずっと薄っすらと、時には濃く立ち込めている。甘い香りの中、道化師の顔を見上げると、微笑んでいた。
その瞬間、旧校舎内のすべての存在が揺らぐ。
私と、お迎えの道化師以外の世界が作り物のように、とても嘘くさく現実感の無いものになってゆく。
嫌な事ばかりの世界だったけど、こうして薄っすらと消えていくのはどこか寂しい。
頭の中がすっきりしてきた。
でも、脳内がいくら澄み渡ってきても、チョコレートが好きだった記憶だけは消えない。
やがて世界にヒビが入る。
チョコレート工場の稼働音が断続的になる。そしてガラガラとすべてが崩れていく。
怖かったら目を閉じるといいよ。
私を抱きしめてくれている道化師はそう言った。ううん、大丈夫。さよなら世界。私は行きます。
チョコレートの匂いが、世界の終わりにに立ち込めた。