「そのマスク、リリアン・ギッシュにちょっと似てるわね」
「うん」そう頷く、マスクを被った人間。
サイレント映画の大女優リリアン・ギッシュ。目の前の人物が被っているマスクには、映画でしか知らない女優の雰囲気が刻み込まれていた――ちょっとした仕草も含めて。
「最も映画が美しかった時代の、最も美しい女優の死に顔なんだ。このマスクは」
へえ、と私は生返事をし、膝の上のスマホで“リリアン・ギッシュのデスマスク”と検索した。が、検索結果は0件だった。
中性的な声で、マスクの人間は私に問いかける。
「他に何か知りたいことは?」
彼が発声するたびに口元が動くマスク。素材は何なのだろうか。その仮面に呪術的な意味合いがあるとしたら、私は間違いなくその呪いを肯定してしまうだろう。
「何も知りたくない?」
マスクの男は優しく落ち着いた声で、重ねて訊ねてきた。相槌すら打たず、私はスマホのメモファイルを開き、箇条書きにされた日々と記憶の断片を眺めた。
蜥蜴、蜥蜴、蜥蜴、ポテトチップス、蜥蜴、クラブのジャック、川沿いの秘密の道、チョコレート、蜥蜴、ガーゼ、赤い自動車、赤い信号、蜥蜴、飛び散ったポーチの中身、蜥蜴、夢、真っ赤になった手、白くて四角い部屋。
「私が何を知りたがっているのかを知りたい」
スマホに見入ったまま、私はそう言った。私は何が知りたいのだろう。この部屋? このマスクの人の正体? 画面に亀裂が入ったスマホのこと?
「何を知りたいのかを、知りたいのだね」
「そう。あなたの素顔はだいたい察しが付くから。他に知りたいことはないわね。リリアン・ギッシュのマスクの人」
マスクの人間は少し首を傾けて、「そうだよ。リリアン・ギッシュさ」と言った。
――ああ、優しい人なのね。
そう思った。安堵とともに溜め息がこぼれる。むかしこんな気持ちになったことがあった。母からお金を預かってお使いに出かけた時。そのお金をどこかに落としてしまって、必死に探していたら、赤い自動車にぶつかってしまって。不思議と苦痛は感じず、ただ安堵を覚えたんだっけ。
ふと、マスクの人間の背後の壁に一枚の絵が飾ってあることに気付いた。額縁は立派だが、絵柄は幼稚なものだった。
涙が滲むのがわかった。あの絵は私の両親だ。いつだって私を見ている両親を描いたものだ。
額縁の向こうで、私を待っているのだろう。
寂寥の思い、とはこんな心境を指すのだろうか。私は両腕で自分を抱きしめて、うつむいて泣いていた。酷く寒い。身体がではなく身体の中身が寒い。
目の前の、マスクの人間の無表情がことさらに寒い。
「何が知りたいのかわかったかい?」
「知らない方が幸せね。私にとってもあなたにとっても」
それから先は言葉をうまく紡げない。口の中がからからに乾いて、乾いて乾いて乾いて。
気付けば、マスクが――目の前に差し出されていた。
そっと見上げると、マスクの人間の素顔はやはりよく知っている顔だった。
「今度は、君がそのマスクを被る番なんだ」
「そうね」
私は受け取ったマスクをそっと広げ、ゆっくりと被った。
「これで私もリリアン・ギッシュに見えるかしら?」
「うん」と素顔のままうなずく男。そして私に手を差し伸べる。
「もう立ち上がれるだろう」
「大丈夫。外の音が聴こえるもの」
――だから大丈夫。
この人がくれたマスクは新たなペルソナ。生きていく上で装わねばならない表情を作る仮面。
素顔になった彼に背中をそっと叩かれて、私は部屋を出る。
私は今、どんな顔をしているのだろう。