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『黒髪と白面』

 僕が築いた家庭は至って平凡だったと言えるだろう。


「だった」と過去形で書いたのは、もう、すべてが壊れ果てているからだ。だから、妻や娘の名前を詮索したりするのは止めてほしい。僕はただ、淡々とこの家に何が起こったかを記そうと思う。


 ※ ※ ※


 妻は僕にも負けじと娘を溺愛しているところがあって、体調管理や勉強の監督に留まらず一緒にアニメを見て感想を言い合ったり、甲斐甲斐しく娘の世話を焼いていた。


 いつかおっきな犬を飼いたいね、と、娘と楽しそうに話していたこともある。僕が帰宅すれば美味しい料理とともに待っていてくれるし、娘も含めて三人でのいつも笑顔が絶えない食卓は、僕の幸福のシンボルだった。


 僕は健康を損なうこともなく毎日の業務をこなせていたし、妻は家が、娘は学校が楽しいと言う。平々凡々たる幸せだが、僕はそれまで経験してきたどんな歓びよりも、この幸せを噛み締め大切にしたいと願っていた。


 そして。


 あれは去年の夏、台風が近づいてきて雨がぽつぽつと降っていた日の事だった。


 窓の外がとても暗くて、陽が傾くのが早かった。もう夏休みに入っていた娘が「台風が早くどこかに行っちゃえばいいのに」と難しい顔をしてこぼしていた。妻は大丈夫大丈夫と娘を慰めていた。そうこうしている内に雨の勢いが強くなり、窓ガラスを叩く雨粒の音がやや暴力性を帯びてきた。


「あっ!」


 何かを思い出したのか、娘が小さく叫んだ。


「ヨミちゃんを持って帰ってない!」


 ヨミちゃんとは流行っている女児向けトイ人形の名前だ。娘がずいぶんと気に入っており、庭の中までなら持ち出して遊んでもいいと僕は許可していた。


 雨が止んだら取りに行ってあげると妻が言った。どこに置いたの? と続ける。


 物置小屋の近くだと娘は言った。


 何故か胃を吊るされるような感覚を覚える。あそこは水捌けが悪く、この暴雨に晒されてしまってはもうドロドロになっているだろう。


 今度新しいヨミちゃんを買ってあげるからもう捨てなさいと僕は言った。未練に震える涙ぐんだ目をしながら娘はうん、とも、うう、ともつかぬ小さな返事をする。可哀想だったが、そろそろお風呂に入ってきなさいと言って、僕はその話を打ち切ろうとした。


 それが間違いだったと分かったのはしばらくしてのことだった。


 もう一人で風呂に入れる年齢なので僕も妻も娘の入浴には構わないでいた。だから二人とも、娘は風呂に行ったものだと思っていた。


 これ雷が落ちるんじゃない? と、冗談半分にカーテンを少し開けて、窓から外を覗いた妻がえっと声を上げた。どうしたんだと僕は窓に近づいて目を凝らす――小さな人影がパタパタと庭を小走りに駆けていた。


 娘だ。


 勝手にヨミちゃんを取りに行ったの!? と、妻が言う。ちょっと連れ戻してくる! と、僕は慌てて玄関に向かう。


 ドアを開けると雨の勢いはかなり増していた。サンダルを履き僕は娘の名前を呼びながら物置小屋に向かう。今となれば永い時間だったようにも思えるし、たかだか数分くらいだったようにも思える。


 ドロドロになったヨミちゃん人形を片手に、何故か放心したような表情の娘が物置小屋の横に立っていた。怒りたくなったのは確かだが、ぐっと堪えて風邪を引いちゃうぞ? と言って娘の手を取り玄関に帰った。


 僕と妻からの少々の小言ののち、泥で汚れたヨミちゃん人形を空いていた段ボール箱に入れ、妻が娘を風呂に連れて行った。

 こんな安い人形に今どきの子供は夢中なんだなと、泥で汚れてはいるが元々真っ白だったヨミちゃんの顔を見る。


 真っ白な顔。


 がちゃり。

 ドアを開ける音がした。ビクッとして振り返ると、湯上がりの娘と妻が深刻そうな顔をして立っていた。


 ○○が、と、妻の口から娘の名前が出た。


 ○○が隠し事をしているみたいなの、と妻は続けた。僕は娘の顔を見た。確かに神妙な顔をしてはいるが、それは先ほど小言を言われたからではないのだろうか?


 何かが頭から離れないみたい、と妻は言った。

 しばらく意味がわからず、僕はえ? と聞き返す。


 訳の分からないことを言い始めたのよ。


 妻はそう言うとへなへなと膝を崩した。


 只事ではない予感と心臓を生掴みにされたような嫌な感覚が背中を蛇のように這い回った。


「――」


 突然、娘が何かを言いかけた。


 まったく空気も読まず、僕たち両親を認識もせず、心もここに在らずといった唐突なタイミングで。


 どうしたの、何? と僕は努めて優しく娘に訊く。


「外で踊ってる黒髪の神様が言ってたの」


 え? と僕は少し硬直した。


 何を言ってるんだろう。僕の聞き間違いか? それにしては鮮明に「黒髪の神様」と聞こえたが。


 妻が不安そうな表情で僕のほうを見た。僕も妻にこれはどうしたんだ? と目で訴えかけた。妻が黙って首を横に振る。風呂に入ったときから――いや、もしかしたら物置小屋から連れ戻したときから娘はこうなっていたのだろうか。


「ヨミちゃんと一緒に話しかけようかと思ってたら、黒髪の神様から話しかけてくれたの」


 娘は続けた。


 妻は少し目を見開いて娘を見ている。僕はただ、何だいそれは――? と相槌を打つことしかできなかった。


「黒髪の神様だってば」


「ずっと庭で踊ってるの」


「黒髪の神様が言ってたの」


 癇癪を起こしたかのように矢継ぎ早に娘は続けた。


 救急車を呼ぼう、と僕は妻に言った。うなずいた妻はすぐに外出できるように着替えてくると言いながら自分の部屋に向かった。


 「黒髪の神様が言ってたんだってば」


 そして――とても強い声で娘が叫んだ。


 ※ ※ ※


 僕が築いた家庭は至って平凡だったと言えるだろう。


「だった」と過去形で書いたのは、もう、すべてが壊れ果てているからだ。だから、妻や娘の名前を詮索したりするのは止めてほしいし――あの存在の名前はもう、詮索してもらいたくない。

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