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『いんへるの珈琲店』

 ――人間はみな、この世に生まれ落ちる前に深甚な問いに答えねばならぬのだという。


 問い、か。


 日菜美は味気のない人生を送りながら何度も何度も自分に問いかけてきた。


 何が欲しい? 


 何がしたい?


 何が好きだ?


 或いは、何が嫌いか?


 納得の行く答えがスッと出てきたことなど一度もない。


 自分自身への納得、そして納得させる言葉。そうしたものと無縁の日々を送り、日銭を稼ぎ、少しだけ贅沢をしたり、そのためにかなりの我慢を強いられてきた。

 そしてたまに読む、好きな海外作家のエッセイ集で妙に心に引っかかっていた一節が、最近は頭の中から離れない。


 ――人間はみな、この世に生まれ落ちる前に深甚な問いに答えねばならぬのだという。


 自転車に乗った老人がよろよろと徒歩の日菜美を追い抜いていく。下校途中のランドセルを背負った児童たちの集団とすれ違う。駅前交差点を渡り少し歩くと住宅街に出る。

 永遠に変わらなくも思える赤信号を睨んで待ちながら、日菜美は頭の中でまた反芻する。深甚な問いに答えなければならない。問いかけ。

 自分への問いかけ?


 今、自分はどうしたい?


 とにかく無性に疲れていた。仕事に。人間関係に。変化の激しい天候に。寒暖差に。それらを操っているのであろう空と地面の間の何者かたちの気まぐれに。


 信号が青に変わった。進んでもいいという合図。


 日菜美はとりあえず小声で自答する――「コーヒーが飲みたい。今は少し休憩がしたい」


 閑静な住宅街を突き進んで奥まったところにカフェがあるのは知っていた。みんな当たり前のように存在を知っていて、でも誰も味を語らない珈琲店。

 普段のお世辞と愛想の仮面は自分の本心ではないといえ、日菜美にもある程度の社会性はあった。

 その珈琲店の名前は仕事場やプライベートで話題に上がったこともあるし、スマホのくだらないアプリで店名を目にしたこともある。


『いんへるの珈琲店』


 それはこの近くだし、あとはまっすぐ歩けばいいだけだ。


 日菜美はとぼとぼと住宅街へと歩いていった。新築のアパートや一戸建てが目立つ通りだが、今は人影がほぼ無い。曇り空を警戒してなのだろうか、大きく『メゾン・ヘヴンズ』と刻印された建物のベランダから、洗濯物を取り込んでいるような姿も見えた。


 こんな立地で採算が取れているカフェなのかしら?


 歩を進めながらお世話なことを考えてしまう。だが、もうすぐ休憩できる、一休みできると考えると脳と身体が少しほぐれ、お腹が鳴った。今日一日は用事で忙しく、何も口にしてはいなかった。


 そこには立派な石造りの門があった。木製の看板に金刷りの文字で『いんへるの珈琲店』と浮き彫りにされている。磨りガラス越しに人影が見える。営業中のようだ。


 初めてのカフェに入るときに抱く軽い緊張感と期待に少し身をこごめて、日菜美は灰色のドアを開けた。


「いらっしゃいませ」


 学生バイトなのだろうか。朗らかな若者が「お好きな席にどうぞ」とニコニコしながら日菜美にぺこりと頭を垂れた。ちらりと内装を見る。赤いカーペットに、素人目にも分かる瀟洒しょうしゃな木製のテーブル。石焼きコーヒーのほのかな香りと、十分にパーソナルスペースを確保できる席と席の間隔。

 窓際の席に腰を降ろすと、日菜美は本革張りのメニュー表を開く。イタリアンコーヒーがまず目についたが、石焼きコーヒーとサンドイッチを頼むことにした。


「お決まりですか?」


 気配を察したのか先程の朗らかな若者がいそいそと歩いてきた。


「石焼きコーヒーとサンドイッチをお願いします」


「石焼きコーヒーの軽食セットですね。承りました。少々お待ち下さい」


 また頭を垂れ厨房の方に歩いていく若者の背を見たのち、店内の空間を把握しようと日菜美はちらちらと周囲を視軸を遣る。


 赤と黒を貴重としたクラシックな内装に、その分野には詳しくないのだが落ち着くジャズが耳に心地よい。決して広くはないが狭くもない上品な店内に音楽が満たされている。

 やや俯き、改めて今日は疲れていたのだなと太股を両手でさする。


 ぽつ、と音がした


 窓を見る。雨が降り始めていた。


 店内の人影たちが喋り始める


 ――降り始めたよ。


 ――今日は降りそうだったもんね。


 ――しばらく、帰れないなあ。


 この店で雨宿りできたのは僥倖だったが、そもそも家にまっすぐ帰っていれば良かったのか。日菜美は少し考える。


 ――いつ止むんだろう。


 ――おい■■くん、■■くんよ。


 ――はい!


 ――ちょっとラジオつけておくれ。


 ――天気予報聞かなきゃね。


 人影たちはざわめき続ける。日菜美などそこに居ないかのように。或いは居ることを知っているかのように。


 古い機器特有の接触音を起てて、ノイジーなラジオが鳴り始めた。


 喉がカラカラに乾いていた。日菜美の心臓が激しく動悸する。喉元まで込み上げてきた熱い塊を押し戻そうと、コップを持ち上げて口をつけた。


 ラジオは鳴り続ける。ラジオが喋り続ける。

 次のニュース速報。


 ――おやまあ。


 ――珍しいこともあるもんだね。


 ――この町で。


 ――この町で。


 ――この町で。


 ――。


 ――。


 ――。


 ――殺人事件が起きたとはねえ。


 ニュースに相槌を打つ店内の人影たち。誰もこちらを見てはいないはずのに感じる視線。


 日菜美は今にも叫び出してしまいそうな自分の口を手で覆うと、コートの内ポケットに隠してある血まみれの包丁を意識しながら、何度も何度も深呼吸をした。


 ――誰が殺したんだろうねえ。


 ――誰が殺したんだろうねえ。


 ――誰が殺したんだろうねえ。


 ――あなたが殺したんですか?


 ――誰が殺したんだろうねえ。


 ――誰が殺したんだろうねえ。


 ハッと日菜美は顔を上げた。


 店内の全員が、日菜美のほうを見、表情で、目で、声で、深甚に何かを、問いかけていた。

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