日常が春めいてきた頃に薫はいつも思い出す。
気怠さや眩暈、或いは桜の古木が見せたのであろう、桜雨の追想を。
花粉と眠気のせいで何もやる気になれず、薫はマンションの屋上から町を眺めていた。不景気の煽りを受けてあちこちの建物が取り壊され、静かに消え去る定めすら感じさせる港町。銭湯の煙突が悲鳴をあげているようにも見え、潮風が葬送曲のようにびゅうびゅうと吹いている。
昼間でも人影が少なく、若者は都会に出て行き、年寄りと出戻りしか残っていないような町だが、この時期には少しだけ町が賑わう。花見客や春休みに帰省してきた人間が、この死にかけた町に少しだけ活気を呼び戻す。ああ、もうそんな時期だなと考えながら、薫は公園のほうを見遣った。
前日、遅くまで起きていたせいか眠気と欠伸が止まない。禁煙に成功している薫は、こういうときにはカフェインで脳細胞を刺激することにしていた。部屋に戻り、コーヒーを淹れようかと思った矢先、強い風が吹いた。ごうっと唸り声をあげながら、風は大量の桜の花びらを散らせる。
コーヒーを飲み着替えると、薫は散歩に出かけた。全身の感覚が鈍くなっており、世界のすべてが嘘臭く見える。足の向くままに市民公園に赴いてみたが、二組ほどの親子連れがいるだけで、満開の桜がどこか可哀相に見えた。夕方頃にはもう少し人も増えるのだろうが、それでもこの寂しい町の虚ろを満たすだけの活気が戻るとは思えない。
ベンチに座って、缶コーヒーのプルタブを開けた。と同時に、ひらひらと桜の花びらが足元に舞う。桜色の小人のダンス。薫は、缶コーヒーに口をつけるのも忘れ、俯いて足元を眺めていた。
ふと、手の甲に冷たいものが滴った。空を見上げると、灰色にかき曇った空からぽとぽとと雨が降っている。
天気予報では今日は晴れだと言っていたのに、と苦々しく思いながら、薫は雨宿りできる場所を探した。公園内からはいつの間にか親子連れも消え、おおよそ周辺には屋根のある場所も見当たらない。雨はみるみる密度を増し、静かながら視野を霞ませるほどの霧雨となって、容赦なく薫の体温を奪ってゆく。
―― こっちこっち。
どこからか自分を呼ぶ声が聞こえた。薫はぬかるみに泥を散らしながら急いでそこへ向かう。桜の古木へと、声が聞こえた場所へと。
足を一歩踏み出すたびに、おかしい空想が頭をよぎる。
自分には兄弟はいないはずなのに、自分とそっくりな顔をした人間が一緒に生活していたような。
この死にかけた町に思い入れなど無いはずなのに、誰かが自分を呼び止めていたような。
毎日、適当な朝食を摂り適当に一日を過ごし、適当な本を読んで気付けば眠っている。同じことを繰り返しているのだけど、それを反復だとは理解できない。煙草を止めたことと、花粉症が酷くなったこと。それだけが日常の変化だった薫を根本から否定するような、おかしい空想が。
桜の古木の下で薫は肩を落とし、何度も目を瞬いた。ふと誰かから、ぽん、と、背中に軽く触れられた。
見上げると、もう一人の自分が立っていた。
恐ろしく現実感が希薄で、死にかけたこの町に相応なこの現象に、薫は力なく笑って、「やあ」ともう一人の自分に挨拶をした。
べたべたと雨に花びらを散らしてゆく桜の古木の下、「こんなに降ったんじゃ、もうお花見はできないね」ともう一人の薫は言った。
春の訪れは、予期せぬ何かも一緒に訪れる時。何が訪れるのかは誰にも予想できないし、例えそれが寂滅の波であったとしても誰にも抗えない。
だから、薫は心の奥底で春に期待していた。春風が運んでくるものに。桜の開花が合図するものに。
「雨傘は桜色のが良いね」
遠くを見ながら、もう一人の薫が言った。ピンクの傘なんて、恥ずかしくて持ち歩けないよと薫は苦笑いをする。ああ、でも今はこうしてピンクの傘の下にいるのかと桜の古木を見上げると、もう一人の薫がクスリと笑った。
柔らかい雨音がより一層現実感を薄める。
つまらない町工場の経理に就職していたこと。友人たちはみんなこの町を出て行ったこと。希望の無いこの灰色の町の毒気に当てられ、気が付けばマンションの屋上から飛び降りていたこと。
もう一人の薫が肩をすくめ、「しばらく雨は止みそうにないね」と言った。その声がどこか虚ろに響く。桜の花びらが、静かにさらさらと落ちてゆく。
この雨が終わるころには――。と言いかけて、薫は口ごもった。雨が止めば。桜が散れば。
「心配無いよ」
もう一人の薫が、ゆっくりと消えてゆく薫の足元を見ながら言った。
心配無い、か。薫は無理に笑顔を作ると、早く雨が止めばいいのにな、ともう一人の薫に言う。それを受けて、もう一人の薫は静かに頷いた。そして、薫の身体は足元から腰へと、腰から頭へとゆっくりと、消滅した。
カラン、と足元に転がった缶コーヒーを拾うと、もう一人の薫――いや、『薫』は、ダストボックスにそれを投げ入れ、雨の中、桜の下を後にした。