「ああ、この光景、知っている――」
静かにパンにバターを塗りながら、
私は心の中で呟いた。
長いダイニングテーブルの端に座り、
無言で朝食をとる家族の姿を眺める。
冷淡な夫、エドガー公爵。
その真正面にいるのに、一度も視線が合わないどころか、
私の存在そのものを無視している。
「……」
彼の態度には、もう慣れてしまった。
静かにパンをかじり、コーヒーを一口含む。
隣に座るのは養子のアレクシス。まだ十歳のはずだが、その瞳には年齢にそぐわない冷たさが宿っている。
「また昨日と同じパンなの?」
生意気な口調で放たれる言葉には、皮肉がたっぷり込められている。
私は視線を落としたまま答えた。
「食べたくないなら残せばいいわ」
感情のかけらも感じさせない冷たい声。
アレクシスは舌打ちし、パンを乱暴にちぎって口に運ぶ。
エドガーはそのやりとりに目を向けることもなく、
食事の手を止めず、静かに言った。
「母親らしい言葉ではないな」
私は微かに笑い、静かに言葉を返した。
「母親らしい態度を求めるなら、家族らしい振る舞いをしていただきたいものね」
エドガーは顔をしかめることもせず、視線を逸らした。
――この光景、見覚えがある。
そう、これは私がかつて夢中になった乙女ゲーム『君が未来を照らすから』の世界。
しかし、私がこの家族の中で「冷酷な公爵夫人」として扱われているのは、私自身が選んだ結果だ。
転生してすぐ、この物語の世界で生きる術を考えた末の決断。
「優しい母親」を演じることもできたはずだ。
けれど、それではこの家族は救えない――私はそう判断した。
目の前にあるパンを一口かじり、視線をテーブルに落とす。
エドガーとアレクシスは食事を終えると無言で立ち去り、広いダイニングには私一人が残された。
「これでいいのよ」
ぽつりと呟く声は、誰にも届かない。
冷たく振る舞う理由はただ一つ。
この物語にとって冷酷無慈悲な公爵夫人――すなわち“ソフィア”を完璧に演じ切ることこそが、最善の選択だからだ。
私の本心など誰にも知られなくていい。
これは愛でもなく、まして慈悲でもない。
ただ、私がこの世界で生きる道を選んだだけのこと。
冷めたコーヒーを最後の一口で飲み干すと、
私は静かに立ち上がり、自室へ向かった。
――最推しの幸せのためなら、どんな役でも私は全力で演じ切ってみせる。
心の中でそう呟きながら。