陽が昇っていく。
ひぐらしの声が聞こえだし、夏の田舎を目覚めさせる。潮の匂いが立ち込める木造りの食堂に、白い筋が射し込んだ。眺めてるうち、徐々に太くなっていく。
眠れなかった。
ふなばた。村中どこを探しても見つからなかった。いつの時代の建物なんだ。
一体どこにあるのだろう。
時計の針が縦一直線に並んだ頃、二階の部屋からおやじさんが降りて来た。
「ふぁあ、なんだ夏樹、もう起きてたのか。おはようさん」
「おはようございます、おやじさん」
いつも通りの顔をして、いつも通りの挨拶をする。おやじさんは口をゆがめて、肩を振った。
「さあて今日が最終日。働き納めだ。最後までよろしく頼むぞ、夏樹」
「はい、頑張ります」
そして始まる最後の一日。
お客さんは、両手で数える程度だった。
夕方。空はほんのり朱に染まり、とんぼがちらほら飛んでいる。
「あの、おやじさん。ちょっと聞いてもいいですか」
僕は外に出ていたのぼりをしまい、帳簿をつけているおやじさんに問いかけた。
ポケットから取り出した、ペンダントを握りしめる。
「この近くに、ふなばたって船宿を知りませんか」
おやじさんの手元から鉛筆が落ちる音がした。
「ふなばた、だと。夏樹、お前なんてこと言いやがるんだ!」
「えっ」
おやじさんの目の色が変わった。すでに立ちあがっていた。
「えっ、あっ、えぇっ」
いかつい顔が迫ってきた。のけぞろうにも、僕のうしろは壁だった。
「ふなばた」
「……はい」
「ここだぞ?」
僕の口から変な声が出た。
「お、おい。大丈夫か、夏樹」
「ここが、ふなばた?」
「お前、職場の名前も知らずによく働けたな」
「いや、だって……」
店の造りが古すぎて、看板の字なんてかすれて読めなかったんだもの。
そもそもここらじゃ海の家で通じるから、聞く必要もなかったし……。
「じゃ、じゃあおやじさん。このペンダントについて何か知ってたりしませんか」
「なんでお前がそれ持ってんだ!」
「えぇっ!」
僕の手から奪い取って、おやじさんは絶叫した。
「こいつは俺が孫の誕生日にあげたやつじゃねえか!」
僕の口って、こんな声が出せるんだ。
そんな風に思えてしまう声が、また出た。
「お、おい夏樹! しっかりしろ!」
「このペンダント、お孫さんへの贈り物だったんですか」
「あぁそうだよ。どうしてお前が持ってるのかは知らねえがな」
海音が孫で、おやじさんは祖父だったのか。……よし、安心した、まったく似てない。
「……何か、言いたい事があるみたいだな。その表情からして」
僕には自分の表情を知るすべがない。おやじさんの顔つきからして、僕が浮かべたものは浅い気持ちじゃないと伝わっている。
もっとも、その通りだ。僕の探していた答えが、おやじさん……あなたにあるのだろうから。
多めに息を取り入れる。
「おやじさん、教えてください。過去にこの村で何があったのですか」
「藪から棒だな。それを知ってどうする」
僕の問いを受けたとき、にわかに眉根にしわが寄った。
まちがいなかった。この人は、僕の求める物を持っている。
「僕は、知らなければいけないんです、この海に起きた事。そして、ペンダントの持ち主である、あなたのお孫さん……海音さんの事を」
「海音。どうしてお前がその名前を知っているんだ」
「それは……」
言ったとして、信じてもらえるのか。それに、彼女の正体をおやじさんに伝えるなんて残酷な事、僕にはできない。
次の句を継げずにいると肩に衝撃が走った。
おやじさんが、僕の両肩をつかんでいた。
「会ったのか。あの子と」
大きな黒目を前にして、うなずく。
「おやじさん、ごめんなさい。実は僕、毎晩あそこに行ってました。浜の向こうにある海辺の崖に」
僕はそこで……。それ以上は言えなかった。
「……やっぱりか。夏樹、そこに椅子持ってきて座れ」
「おやじさん」
「知りたいんだろう、海辺の崖の真実を。話してやるよ、手短かだけどな」
そしておやじさんは、少女の話を語りはじめた。
「海音は、幼い頃から歌の才能に恵まれた子だった。隙あらば歌ってるような自由奔放な性格で、いつも村の連中を笑顔にさせていた。もしも海音が歌わなかったら明日の海は大シケだと言われたくらいに。海音は村のみんなに愛されていた」
「愛されていた……」
「亡くなっているよ、ずっと前にな。どうして、あぁなっちまったんだろうな」
おやじさんが嘆息する。辛い記憶を喋らせているんだ、穏やかでいられるはずがない。
僕の表情をまた見たのか「いけねえ」と、おやじさんは口元を緩めた。
「年寄りの昔話だ。感傷的にならないように話すとしよう」
「どうか、無理なさらないでくださいね」
「年寄り扱いするんじゃねえよ」
ちょっと笑って見せたおやじさん。テーブルの上に片ひじを置く。
「確かに海音は、歌が上手かった。おそろしいほどに人の心を動かす力を持っていた。それをどこから見つけてきたんだろうな、あの連中がやって来たんだ」
「あの連中?」
「街の人間だ」
ある日突然やって来て、海音の歌を売りに出そうと言ってきた。
背後には、良くない人間の影も見えた。
この村全てを買い上げて、大きな観光施設を建てるつもりとも言っていた。
「村の皆は反対した。昔からこの海で暮らす俺達にとって、生まれ育った土地を手放すことなど堪えられる話じゃなかった」
だが街の人間はしつこく押しかけてきた。村中みんなで抗っていた。
そして最後に、意地の悪い人間がこんな話を持ち出した。
「土地を渡すか、海音を売れと」
「まさか、そんな一方的に決めつけられる話じゃないでしょう」
「そういう事をできる人間がいたんだよ。……それで、決めてしまったんだ、あの子自身が」
海音は、街に行くことを奴らに自分から名乗り出た。
「そんな……」
「街に行くことが決まった海音……それからだったな。毎晩、あの崖に出かけては海に向かって歌ったり、変な言葉遣いでしゃべりだしたのは」
「前は、そうじゃなかったのか」
「誰にも物怖じしないで引っ張り回すような子さ。人懐っこすぎていつも冷や冷やさせられた。しかし、そんな海音も……」
おやじさんはそれからしばらく口を開かなかった。ようやく話してくれた言葉の続きも、ひどく途切れ途切れでとても辛そうに見えてしまった。
海音は、村の皆を困らせまいとみずから海を離れることを決意した。
しかし、心に傷を負う形での決心だったのだろう。それまでやって来なかった事をしはじめた。
海辺の崖で歌う事と、自分を偽る言葉で話し出した事。
そんな日を過ごすうちに、やがて運命の日が来た。夏の終わりかけた頃。嵐の多い時季だったらしい。海音は誰にも告げることなく家を抜け出し、一人で海に向かってしまった。
夕焼け空は雲に覆われ、潮風はきっと強かったろうに。
いつもと違う海だとしても、彼女はそれさえ抗おうとした。
「……何てことをしてくれたんだ、海音」
それはとても穏やかな顔だった。おやじさんは昔話をそう結んだ。
「そんな悲しい話があったのですか、この村に」
悲しすぎる。どうして海音が苦しまなきゃいけなかったんだ。
「その様子だと、街には広まってない話みたいだな。最後まで聞いてくれて、ありがとうな」
心に落ちた鉛が手元へ流れ、結んだ手を固くする。店内には椅子のきしむ音だけが響いた。
「あぁ、そうだ、これはお前が持っててくれないか」
おやじさんは海音のペンダントを差し出してきた。
「まさか、大事な思い出の品でしょう」
「いいや、お前に持っていてもらいたい。そして、頼む。夏樹の手で返してやってくれ」
その一言で、僕はおやじさんのすごさを知った。
あぁ、この人は、すべてをわかってこの首飾りを僕に渡すのだと。
「だったら、おやじさん、海辺の崖の幽霊って」
「何も言うな」
自分の孫娘が正体だとわかってて、ずっと今まで海を守ってきたのか、この人は。
「頼む夏樹。俺達がどうしても会えなかったあの子に、海音に、お前は選ばれたんだ……」
なんて、なんて人なんだ。おやじさん。あなたこそ誰よりも彼女に会うべきなのに。
「海音を空に還せるのはお前だけだ。あの子を自由にしてやってくれ。頼む夏樹、この通りだ」
「おやじさん……」
「どうか会ってやってくれ、あの子の話を聞いてやってくれ。そしてどうか、伝えてやってくれ……お前のことを誰も忘れてなんかいないと」
その目に浮かぶ熱いものが、僕のやるべき道を教えてくれた。
「……わかりました。僕、やります。やってきます」
「夏樹」
ありがとう。今までで最も優しい響きが聴こえた。
「日暮れまで時間がない、急いでくれ。お前との思い出がある場所に、きっとあの子はいるはずだ」
「はい」
「頼んだぞ。もう一度、あの子と歌ってこい」
首を大きく縦に振り、僕はふなばたを飛び出した。
夏の夕暮れを全速力で駆け抜ける。
見上げた空はさっきまであんなに明るかったのに、いつしか暮れ色を濃くしていた。夏の終わりが近いらしい。涼しくなった風を切って海への道を走る僕は、あの日と違う胸の高鳴りを感じていた。
海音。
僕はきみと出会えたこの夏を、記憶の一つで終わらせたくない。今はそう思っているんだ。果たしてきみはどう思っているだろう。曲がりっぱなしの僕なんかを。
だけどそれでも僕は、きみにまた会いたい。言葉にして伝えたい事がまだまだあるんだ。
馬鹿だと思えば笑ってくれ。それでも僕は前に向かって進まなくちゃいけないんだ。
終わる前に。
終わらせてしまう前に。
終わりの時が来る前に。
きみといた夏が思い出になる前に。僕は、僕のやりたい事をやり抜いて見せる。
どうか馬鹿だと言ってくれ。
僕の願いは一つだけ。
もう一度、きみと歌いたい。