翌晩、海音は現れなかった。
後悔に責め立てられた。
あの時の、あの表情を思い出すと……ああ、自分はどれだけ愚かだったのだろうか。
海音は幽霊だった? さては夢じゃないのか?
そう信じてまぶたを閉じても、現実はなにも変わらない。
僕一人が沈んでいるだけで、景色も、流れる時間もなにも変わらなかった。
ただ漠然と、胸に重すぎる罪悪感。そして生々しい手ざわりの虚無だけがある。
抱えるには、それだけで精いっぱいだ。
一日がこんなに長いとは、今まで思いもしなかった。
次の夜も、僕が彼女を見ることはなかった。
耳に届くのは、少なくなった蝉の声と、波が浜辺をこする音。
それと木々を揺らす風の音だけ。
星さえ凍り、何もかもが色を失った。まるで息をする人形になった気分。
歌声も無い。あるのは虚しい響きだけ。
何度も海辺を訪れた。考えた所で彼女の顔を見ることはない。
彼女ともう会えない。僕はそれを積極的に肯定できなかった。
虫が冷たく鳴いている晩、再び僕は海に来た。そう、誰もいない海に。
空は広く晴れわたり、星がこぼれんばかりに煌めいている。
彼女と出会ったあの夜も、こんなに澄んだ空だった。
懐かしいと思ってしまう。それでも大事に覚えている。海音と過ごした歌の日々を。
色んな事を話した。好きな事に楽しい事、たくさん話した。互いの歌を歌ったりした。
海音、僕の歌を好きだと言ってくれて、嬉しかった。
たくさん笑いあった。あの笑顔。何でも包み込んでくれる、月光のような柔らかい笑み。
きみの笑顔を見るために、僕は毎日頑張れたんだ。歌声の絶えない毎日だった。
楽しかった。
「う……っ……あ、あぁ……」
膝が崩れ落ちた。目から滴がこぼれていく。手元に溜めた思い出が指の隙間をぬうように。
もう、何も残されていない。光と喜びに満ちたこの心も、いまや空っぽの器になった。
海音、ごめん。本当にごめんなさい。
会いたい。
会いたいよ。
会いたい。
会いたい……。
広い八月の浜で僕は一人、とめどなく涙を流し続けた。
この声が彼女へ届くはずがない。
会いたい……もう一度会いたいよ。あと少しだけ話してたかったよ。
認めたくない自分の弱さが体中から溢れ出る。
分かっている、分かっているんだ。この思いが叶わないことは。
夏の終わりが近づいている。僕はもうすぐ街に帰る。
このままの気持ちで帰っても、僕は何もできないだろう。
夏の終わりはもう近い。この海ですごす時間は、残りわずかだ。
「なにやってんだよ、自分。かっこわるいよ、だっさいよ」
置いていこう。すべてここで忘れてしまおう。
「…………」
吠えた。
喉のこととか考えずに思いきり吠えてみた。
とても気持ちが良かった。
わかった。もういいよ。やめにしよう。
はい、じめじめ気分、おしまい。
そうだ、決めた。今までの思い出をみんな、あるだけ全部置き去りにしよう。
そして、残りの時間を一生懸命に頑張って、胸を張って街に帰ろう。
夢に向かって僕の決めた道を、歩いてゆこう。
だから、この海の思い出は……無かったことにしよう。
「がんばれ。がんばれ。……がんばれっ」
締まりのない自分の顔を思いきり叩いた。しびれた頬が涙を止める。
胸の中の息をすべて吐き切り、目の前の平線を睨みつけた。
「江藤夏樹、歌います」
これがこの夏最後の歌になるだろう。
つらい心と決別し、前へ向かって歩き出そうと思いを込めて書いた歌。
音程とか抑揚とか技術みたいなの全部忘れて、あるがままの声を出した。
出しながら、思った。
こんなにも、心の筋が伸び切るほどに気持ちを乗せた歌なんて、僕はしたことあっただろうか。
僕は歌った。口から感情が飛び出すような歌い方。
すべては別れを告げるため。自分にけじめをつけるため。
もう何も怖くない。僕の裸になった感情は音に乗って海に広がる。
こめた思いは歌声に乗り、遠くの空に飛んで行く。
さようなら、今年の夏。
さようなら、海での思い出。
さようなら、きみ。
さようなら……さようなら……さようなら……。
歌声は薄闇の海にやがて消えた。
もう、空っぽだ。
僕の瞳はまだ濡れていた。
胸から痛いものがこみ上がるのを抑えながら、その場にただただ立ち尽くしていた。
これで終わりなんだ。
……さあ帰ろう。
「素晴らしい歌声だ」
耳に届いた声が僕を現実に引き戻した。
手を叩いている音。
顔を拭ってそちらを見ると、妙な気配を出す男が、涙ながらに僕に拍手を送っていた。
いつまでいたんだと、正直思った。
「まさか兄ちゃん、君が歌っていたとはね」
「……生きててくれて良かったです」
いつかの騒ぎを起こした男。一人になりたいのに、間の悪い。
「何の用ですか、どうしてここに」
「お礼を言いたい」
お礼を?
予想もしてない発言に男の顔をたしかめた。……目つきが変わっている。
「今の歌は、君が作ったものなのか」
「まあ……それが何か」
無意識のうちに言葉がとげとげしくなっている。この男に、歌の話をされたくない。
「君の歌を聴かせてもらった。君の歌う素直なメロディと歌詞、実に素晴らしかった。聴いていると、心が洗われるようだと感じた」
「つまり考えを改めたと」
男はうなずく。変わったことを言う人だ。
「久しぶりだ、歌にここまで感動するとは。君の歌に生きる力をもらった……ありがとう、本当にありがとう」
上気した男の言葉は、それだけ僕の心を強くたたく。聞けば聞くほど胸をえぐった。
「兄ちゃん、いいもの持っているね」
……なんだよ。
「あんたはいったい何なんだよ。いきなり現れて、なんでそんな事を言うんだよ」
僕には正しいことが分からなかった。
今更そんな事言われたって、僕はどうすれば良い。
自分なんか海音にかなうはずがない。僕の歌に何があるっていうんだ。
「僕は」
もうめちゃくちゃだった。
「自分の歌がきらいだ」
吐き出すように言った。この男には何と思われようと、どうということはない。
正直に自分の感情をぶつける相手としては、ちょうどよかった。
「まあ……綺麗な歌声、とは今のじゃとうてい言えないけどね」
「歌は、過去を返してくれない」
眉の間に力がこもる。言いながら目が熱くなり、ごまかすように男の顔を睨みつけた。
「僕には、できない事が多すぎる」
「それで泣いていたのかい」
「……見られてたんですね」
気付かれていた。それでも男は動じてなかった。
「君はたしか、夏樹君と呼ばれてたね。私はこういう者なんだ」
男はポケットから白い紙切れを取り出し、こちらに向けた。
「名刺? おじさん、そんな物持ってたんだ」
「ま、こんな風体じゃ仕方ないさ。とにかく受け取ってくれ」
差し出された指の間から名刺を引き抜く。
目の前の男によく似た男性がスーツを着ている写真がある。その横には名前が書かれ、上の方によく知っている文字列が並んでいた。
「君、わかりやすい顔をしてくれるね」
「まさか、ありえない。どうして」
「ただの歌が好きな酔っ払いだよ」
まぎれもなく紙切れは男の名刺だった。
そして肩書きには、世間で最も有名な音楽会社の社名が載っていた。
しかも重役。
「今日は酔っていないが、日頃のおこないがよくないからね。信じられなくて当然だろう」
僕は言葉を返せず、首を横に振るだけだった。
「それでも良い。だけど、ここにいる一人の人間が、君の歌に救われた事実は信じてくれ。君の歌は、素晴らしかった」
男の瞳は嘘をついていない。
男は僕を前に姿勢を改めた。
「単刀直入に言わせてもらう。ウチで歌ってもらえないだろうか」
「ちょっと、いきなり何言ってるんですか。そんなんじゃまるで」
「スカウトだよ。わざわざ聞かなくても分かるだろう」
「こんなに、あっさり?」
その続きは絶句した。
「返事は今でなくて構わない。相談なら、名刺の連絡先までいつでもしてくれ」
「待ってくださいよ。どうして、どうして僕なんかを」
「君だからこそだよ」
男は表情を柔らかくして、とても穏やかな声で言う。
「私は君の音楽が好きなんだよ」
「僕の、音楽を?」
男は僕の前を通り過ぎて、海に向かって語りかける。
「人はみな、素晴らしい力を持っている。未来を豊かにするのは、それに気づけるかどうか。若者よ、自分をあなどるな。夢を語れ。追いかけ続けろ。君達には、無限の可能性がある」
「おじ、さん……」
そんな事を、君の歌が言っていた。
「この海は、いい所だ」
視線をちらりとこちらにやって、男は少し笑って見せた。
「さぁて、帰るとするか。街の方が性に合うね、私のような傾奇者は」
「あの、おじさん!」
振り返った男に向かって、僕は頭を下げた。
「ありがとう、ございます」
「……いずれまた、上で会おうな」
男はそれを最後に、この浜辺から去って行った。
「僕の夢……叶うんだ。僕の夢が、叶うんだ」
そして誰もいなくなった時、僕は呟きながら崖へと駆けた。
砂に足を取られながら、走る。
転びそうになりながら、なおも走る。
何とか崖にたどり着く。
夕暮れの海に向かって意味もなく叫んでみた。
足元から小石を拾って、遠くをねらって放り投げた。
茜を濃くする水平線に、投げた小石が飛んでいく。
僕はもう一度、大きな声を出した。
何を考えていても整理がつかなかった。やがて僕は疲れてその場に座り込んだ。
息切れ。
胸が苦しい。
興奮に似た別のなにかが、身体の底でわいている。
呼吸が収まっていくにつれ、さっき交わした話の輪郭が見えてきた。
「そっか、夢、叶っちゃうのかぁ。そっかぁ」
人は極度に驚くと、むしろ冷静になるらしい。なるほどなと思った。
たしかに僕は今とても落ち着いている。ゆっくりな雲の流れも眺めていられる。こんなに突然決まるのか、人の未来は。
うれしいし、喜ばしい。普通なら跳んで気持ちを表すかもしれない。
けど……素直に喜べない自分がいた。
何をためらっているんだ。ずっと望んでいた機会がきたんだぞ、なぜ喜べないんだ。
分からない、自分でも分からない。
額から汗が滴って、顎の先をすべりおちた。
気が抜ける。
岩陰にへたり込み、ぼうっと宙を見ていたその時だった。誰かに話しかけられたのは。
「よかったですね」
どこかから澄んだ声が耳に届いた。僕はとっさにあたりを見回す。
いた。
「海音」
大きな月を背に受けて、白い少女が佇んでいた。
海音がいる。あの美しい少女が、すぐそこに。
全身が急激に熱くなった。
言わなきゃ、謝らなきゃ。行かないと……!
「海音。やっと会えた。海音、あの時は」
「来てはいけません」
駆け寄る僕に海音は冷たく言い放った。
「海音?」
「こちらに来てはいけません。夏樹さん」
海音の足元には、何も無かった。
「……なんだい」
海音は、握った手をそっと開くと、いつも着けていたペンダントがあった。
青い玉の首飾り。それを海音は岩場に置いた。
「これを持って行ってください」
「持っていくって、どこにだい」
「ふなばた。浜の近くにある船宿です」
黙って、うなずく。
「そこで全てがわかります」
首飾りを拾い上げると、海音の姿はいつのまにか消えていた。