それから、僕は曲作りに没頭するようになっていた。
夏も終わりに近づいて、海を訪れる人も数えてしまい、自由な時間が増えたから。だからといって曲作りが捗っているとは言いがたい。
いやむしろ滞っている。
日に日に募る焦りと、悶々とした気持ちが想像力を締め付けている。
「夏、海……風……水平線。歌……夢、空……思い出……」
適当に浮かんだフレーズを書き留めていくが、どうも上手くつながらない。
最後はいつも同じところに行きついてしまう。
「……海音……あぁっ」
ことあるごとに彼女の顔が浮かんできて、まったく作詞に身が入らない。
歌詞が出なけりゃ、音楽すら浮かばない。
これはひどい。丸めた紙がいくつも部屋に散っている。
作詞帳もシワだらけ。
史上最悪の絶不調だ。集中力が散漫すぎる。
……なんてことだ。
こんなに夜を迎えたくないなんて!
いや違う、落ち着け夏樹、そうじゃない。
海音と歌うひと時が、素晴らしいのに変わりはない。
僕はあの時間が楽しみで、むしろ……。
ただ、それを感じる分、ペンを握った僕の手は、空を掻くばかりだった。
夕暮れ時の松林で、ツクツクボウシが鳴いている。
最後のお客さんが店を出た後、いつもなら翌日の準備を手伝うのだけど、おやじさんは僕に暇をくれた。
残り少ない夏休みを楽しめという、おやじさんの計らいだろう。
厚意に甘えて、いつもより早く海辺に向かった。胸には大きな決意を一つ。
海岸沿いを歩くと、風は少しだけ涼しく感じた。夏の終わりが近づいていると気づかされる。
いつもの崖に着いた時、彼女はまだ来ていなかった。
「きれいだな……」
手ごろな岩に腰を下ろす。水平線に消えていく日をぼんやりと見つめる。
そのやわらかな光を前にして歌詞を考えようとしてみたけれど、やっぱり言葉がうまく乗らない。
海音が僕に見せた世界にはいまいちふさわしいと思える文字が出ない。
彼女の歌は、一文字ずつが命を持っている。僕にはどうもそれができない。
もどかしくなってきたから今の気持ちをメロディにして口ずさんだ。名前も知らない虫たちが波に合わせて鳴いている。
……それでもやっぱり、歌が好きだ。歌でいろんな人を笑顔にしたい。
小さな頃からその思いは変わらない。
「星が?」
背後からすずやかな気配がした。
「……きらめく」
「夜空に?」
「……はばたく」
「ばっちりじゃないですか、夏樹さん」
得意げな顔して彼女は僕の前に回り込んできた。
「海音」
「なんですか?」
「この挨拶ってまだ続けるつもり?」
僕の締め切り前の作家みたいな言い訳は、海音にばれてしまっていた。
歌詞が湧いてこない。彼女にいつもどんな感覚で歌をつくるか尋ねると、今やっていた言葉の連想遊びを教えてくれた。
ふと頭に浮かんだ言葉に、物語としてつながるような言葉を継ぐ。
海音はそうやって歌の世界を編んでいるらしい。彼女の自由な言葉選びはそこからきている。
ただまぁ、彼女と顔を合わせるたびにこの言葉出しを問われるようになってしまい、毎回ドキドキしてしまう。
「夏樹さんが歌詞を考えつくように練習です。だんだん変わってきたでしょう」
「まあね。歌詞って感じたものを書くわけだし、直感を大事にするものだとは思うけど……」
「よくないですか?」
「そんなことはないよ。なんというか、似てきたような気がして。きみの歌に」
「わたしの歌にですか」
「だけど僕だと声として口に出そうとすると、弾けて消えてしまう。泡のようなんだ。形が残せない。そこが僕ときみの大きな違いなんだと思う……」
彼女の頬は、綺麗な茜に染まっている。目が合いそうになり、ふいと顔を海に向けた。
「わたしも夏樹さんの歌、心に沁み込んできているなって思ってます。夏樹さんがくれた、前を向こうとする歌の力」
僕が座る岩の隣に海音が腰かけた。その近さに、思わず体があつくなる。
「わたし、夏樹さんからもらったこの心、とても……良い、と思います」
「良い?」
「だめでしたか」
「全然! 嬉しいよ、海音に言ってもらえたら。僕は海音の歌を、す……素晴らしいと思ってるから」
「素晴らしい……?」
なんだこりゃあ。
おたがいに変な間が空いてから褒めている。いつのまにか僕も海音も言葉を選ぶようになっていた。そんな空気がおもしろくて、おっかしくて。
海音と目が合う。僕らは一緒に吹きだした。
あぁ楽しい。やっぱり彼女といる時が一番楽しいや。
「夏樹さんって本当によく笑いますよね。すごいです」
「楽しかったら笑顔になれる、自然な事だ」
すると海音は不思議そうに「自然に笑えるのですか」と聞いてきた。
「きみは違うの?」
僕の問いかけに唇をとがらせて上の方を見た。
「わたし、たまに自分が分からなくなるので。歌っているときだけが本当の自分で、そうじゃないときはいったい誰なんだろうって」
「ありのままでいいって言うのも、無責任だもんなぁ。たぶん人は誰でもこんなの自分じゃないって思うときがあると思うよ。僕もそうだし」
「夏樹さんもですか」
「うん。だからその分、今こそが自分だって思える瞬間に気づけてるかが大事なんじゃないかな」
「夏樹さん……」
「……っていうのを、どこかの歌手が歌ってた」
自分の言葉じゃないけど、それなりに良いこと言えたと思う。代わりに海音の頬が膨らんだ。
「夏樹さん!」
格好つけな僕を怒っているのか、空気をためた顔が丸い。海音のかわいらしい表情に、僕は笑う。
「僕も正直、そんな簡単に答えなんか出せないよ。自信なんてない。このまま誰からも必要とされないで世界の隅で消えていくのかも、なんて孤独や不安といつも闘ってる」
「それでもやっぱり、夢を叶えたいと思い続けているのですか」
「好きだからね。歌が好きだから、歌のために僕は生きて、そして死にたい」
「……それはいけません!」
突然、海音が声を張った。飛び跳ねるような否定の言葉に僕はおおげさだなと思った。
「まさか、たとえ話だよ」
「嘘でもそんなこと、言っちゃいけません。大切にしてください、自分の夢を」
「海音……」
驚いた。彼女がこんなにも真剣な色で僕に言うものだから。
僕が喋れないでいると海音はハッとして顔をそらした。
「ごめんなさい。私、ちょっとおかしかったですよね」
うつむきがちに手元の指を組む。そのしぐさが海音の肩をとても細いものに見せる。
あんなに自由で朗らかな歌声を奏でる少女が、今こうして僕のために言ったこと。それを考えると、なんだか優しい気持ちになれてきた。
「ううん。ありがとう、海音。心配してくれたんだね」
「わたし、夏樹さんにはいろんなことを教えてもらっていますから。元気でいてほしいんです」
「僕はいたって健康だよ。このところは店にお客さんも少ないし、元気さ」
「いいえ、そうではなくて」
しおらしい響きの声色だ。
海音。きみの優しさは僕に伝わっている。僕はきみに感謝したい。
だから言おうと思っているよ。
僕は気づかれないくらい静かな呼吸をひとつ入れた。
「海音」
呼びかけの声に小さな返事があった。
「海音は、歌が好きだ。きみは歌でみんなを喜ばせたい、そう思っている」
風になびく髪をかき上げて、海音は「はい」と答える。水平線がかすんで見えるまでに、その横顔は色鮮やかだ。
「僕も一緒。思いきり歌って聞いた人を元気づけたい。そのために今、街で頑張っているんだ」
僕は今日この事を話したくてここに来た。
同じ夢を追う者同士、言わなくちゃ、彼女の為に。
喉の奥が熱くなり、握ったこぶしの手の平に、爪を立てた。
「海音、街へ出ないか。ここを出て広い世界に行こう。きみだったら認めてくれる人が必ずいる」
「……いいえ、わたしにはできません」
「そんなこと」
「わたしは、このままでいいんです」
言葉を重ねて、静かに海音は視線を下げた。
夕日の影に憂いを含んだ瞳が映る。
「ありがとうございます。夏樹さんにそう言ってもらえるだけで、わたしは嬉しいんです」
そんな顔、して欲しくない……。
思ってた矢先、僕の口から言葉はするりと出てしまっていた。
「僕と一緒に行こう」
聞いた瞬間の海音の顔は、呆気にとられた感じだった。
「えっ」
虫の音は、いつの間にか止んでいた。
「僕と、街に行こう。一緒に歌ってたくさんの人をシアワセにしよう」
「夏樹……さん」
自分の両手を握り締める。
胸いっぱいに息を吸い……彼女の手を取った。
「僕は、きみと歌いたいんだ」
その時、初めて海音に触れた。
きめ細やかな彼女の手。ほっそりと華奢な色白の手。ずっと触れられなかった小さな手。
顔がとにかく熱かった。言うこと言ってその場を逃げ出してしまいたかった。
だけど僕は海音の手をしっかり握って、大きな瞳をまっすぐ見つめた。
海音の手はおそろしいほど冷たかった。
「……どういう事だ?」
ひどく悲しげな表情のまま、彼女は僕を眺めていた。
「人間の手が……どうしてこんなに冷たいんだよ」
あまりのことに声が出た。
「ごめんなさい」
「海音っ、待つんだ、待ってくれ!」
振り払われた手のひらに、不気味な温度がはりついている。頭上で無数の疑問符がわく。僕は氷に触れたのか。触れた所が熱をすいとられてしまいそうに感じられた。
……うそだ。
なにかの冗談だろう。
だってこれじゃ、まるで、血の気が無いみたいじゃないか。
心臓の鼓動がうるさい。頭の思考の邪魔をする。都合のいい理由探しをできる余裕がない。
だから僕は正直なんだ。思い出したくもない言葉がわっと脳裏を這い上がり、点と点が線を結んで、一つの結果を導き出す。
海と崖。
転落事故。
死の歌。
冷たい手。
夜だけの出会い。
「海音……きみこそが」
僕は嘘がつけない奴だ。
否定してくれると期待して、震えた声でこんな事をたずねてしまった。
「海辺の崖の幽霊なのかい」
夕暮れの赤い空気が沈黙のまま冷めていく。
世界が音を失くしたようだった。
海音は、こちらへ振り向かなかった。それがどういう意味か、静寂は無理やり教えてくる。
そうだ、と。
その瞬間、鋭い氷が僕のすべてを貫いて、記憶の限りを凍てつかせた。
海音が幽霊。何かの間違いだろう?
嘘だ、信じないぞ。
なあ海音、こっちを向いてくれよ。話を聞かせてくれよ。嘘だと言ってくれよ。
「なあ海音……海音っ」
「ごめんなさい」
海音は闇へ駆けだした。すぐさま僕は追いかける。そのとき突風が崖の上を叩きつけた。
動けない。僕は岩に必死でしがみつく。
「海音っ、海音!」
激しい風にしだかれながら遠のく背中を見送った。
何度その名を叫んだだろうか。吹き荒れる風の中で必死になって彼女を呼んだ。
だけど、彼女は二度とこちらを見ることがなく、宵闇の中へ姿を消した。
風がようやく収まるころ、波が打ち寄せる音だけが残っていた。