「ところで、夏樹さん」
「何だい?」
大きな瞳がこちらを向く。僕の姿がそこにうつった。
「生の歌と死の歌って、ご存じですか」
「……生の歌と死の歌?」
こくんとうなずいて、海音は続ける。
「わたし思うんです、歌には人に生きる力を与えたり、奪ったりする力があるって」
「与える方が生の歌だとしたら、死の歌は」
「人を死なせる歌です」
不意に海音から視線が外れた。
「それを、どうして?」
「何となく、思ってたんです。生の歌は人を元気づける歌。それとは反対に、この世界にない安らぎを与える歌もある。どちらの方が人はシアワセになれるんだろうって」
海音の歌声は人の心を動かす力がある。彼女自身もやはり分かっていたんだろう。深く胸に届く歌がきっと、人の感情すらも左右するかもしれないとも。
「ううん、僕は生の歌、かな。生きていれば良い事あるだろうし」
「では、死ぬ運命を避けられない人が聴くとなれば?」
「……そうか」
重ねられた問いに息を引っ張った。
たしかに、生きる望みがある人を元気づけるなら生の歌がふさわしい。
けど、命の終わりを悟った人にとって、最期を安らかに迎えられるのは……?
選べない。僕には優劣をつけられない。
続く命と終わる命。それぞれを歌は導く事ができる。
歌が導く命の行く末の価値を、僕は答えることができないと思う。
たぶん、ずっと。
「人のシアワセって、結局は心の持ち方次第なんでしょうか」
「それでも、どっちで在りたいかって言われたら、僕は生の歌で皆を元気づけていたい」
ですね、と言って海音は手を後ろに組みなおして、振り返った。
「わたしにとっては、そうですよ」
「海音?」
「生きてることが歌なんですから」
「生きてることが歌?」
「あなたがどんなに葛藤してても、あなたが道を進む姿に、誰かが元気づけられている」
得意げに口にした海音の言葉、僕には返すべきものがわかった。
「……一人じゃないよ、歩いてゆけばいつか会えるさ。幸せになれるへんてこ影法師」
僕の歌詞の一つだった。
憧れている人たちが僕らの前で輝いている姿を見て、思いついた言葉たち。彼らの存在がいつも僕の気持ちを励ましてくれている。僕も誰かにとってそうでありたい。そんな風に思って書いた。
「わたしにとって夏樹さんの歌は生の歌です。だって夏樹さんの歌って、元気になれるから!」
両手を広げてくるりと回る。海音の視線を追うように僕も海の方へと口を開く。
「ありがとう、僕もだよ」
その言葉は出なかった。それらは喉の奥で引っかかり、声に乗ってくれなかった。
白いワンピースがひるがえる。海音は髪をかき上げながら、くすりと肩をすくめて無邪気な輝きを目に宿した。
「夏樹さん。さ、歌いましょう?」
返事も待たずに、海音は一人で歌い出した。
今年の夏。彼女と僕はいつも一緒に歌ってきた。そして僕は多くのことを学んだ。命を燃やして解き放つ力強さ。自然の全てに響かせる調和。人の心を動かす表現力。
そうだ、彼女の歌は僕にとっても生の歌なんだ。
あの崖で初めて聴いた彼女の歌に、僕は本当に胸を打たれた。
その時から、彼女の歌に惹かれていたんだ。
気づけば歌うことを忘れ、ただ純粋に彼女の歌に聴き入っていた。満月じゃないのに夜空はとても眩しくて、海音の白い姿は影もなく砂浜の上に浮かんでいた。
「……夏樹さん?」
いつまでたっても歌わないのにようやく気がついた海音がこちらへ振り向いた。
目と目が合う。
大きな瞳に僕の顔が映っている。
吸い寄せられる深い黒に、時が止まった錯覚をしかけた。
瞳に映る、自分のまぬけた顔が面白かった。それでも僕は彼女の瞳を見ていたかった。
できることなら、ずっと見つめていたかった。
……崖の上に、一つの人影を見出すまでは。
その瞬間、呼吸が止まった。
海辺の崖の幽霊だ。
まさか本当にいただなんて。
噂は嘘じゃなかったのか。
いや、よく見るんだ。あれはきっと幽霊なんかじゃない。
動いている。つまり……生きている人間だ。だから僕はその場を飛び出し、崖まで全力で走りだした。人影は、ゆっくりと崖の端まで歩みを進める。その先へ影が踏み出そうとする前に、僕は彼を抱き止めた。
「何やってるんですか! 危ない!」
腕を引っ張って、男を手前に投げ飛ばした。
転んだ男の足は、やはりなにも履いてなかった。
「何やってるんだよ、何しようとしてたんですか、おじさん!」
僕の声は震えていた。
うめき声をあげて睨んだ顔は、初対面ではなかったから。
「君は、海の家で働いていた……」
昼間、騒ぎを起こした男。
知った顔がこの場にいると分かると気味の悪い汗がしみ出してくる。
この男はたった今、海に身投げしようとしていたのだ。
男もまた僕に気づくと目を丸くしていた。
どうしてこんな事を。
「おじさん、やけ酒ですか、さっきの」
「生きてりゃ、死にたくなるものさ」
酒のせいでかすれた声には、男のすべてが詰まっていた。
「だからってそんな」
「私は君より飯を食ってる、何十年も多くね」
僕の言葉を遮って、男は僕を指さした。
「……おじさん、街の人ですよね」
「一般的な一般企業の一般的な会社員。ただまぁ、他人の人生を左右できる立場だったり」
「おえらいさん」
「その呼び方はよしてくれ。私はそんな人間じゃない」
海を眺めるその背中には、僕の未熟な感性では言い表せないものが漂っている。
「少しだけ、疲れていたんだ」
短い言葉で済ませているが、苦労が詰まってる。男はうつむいて溜め息のように言葉を吐いた。
「誰もいない旅がしたくて。先日、街からここに来た。飲めるだけの酒を飲み、自由に振る舞ってやろう。そんなつもりでここにいた」
「はっきり言って迷惑です」
「はは、正直だね君」
店での態度を見ればわかる。まだ許せる相手ではないけど、何となくこの男が小さく見えた。
男は続ける。
「酒を飲んで気を大きくした私は、あれから外をあてもなくぶらついていた。大きくなったのは気持ちだけじゃない。ぼんやりとした不安も共に膨らんだ。その時だ、何処からか美しい歌声が聞こえてたんだ」
「歌が?」
思わず言葉が漏れた。
「なんとも美しい歌声だったさ。私は悩んでいたことすべてが消えていくような心地になった。たぶん、夢の中にいたのだろう。意識が戻ると、目の前に兄ちゃんがいた」
「それは……どうも」
男は大きく息を吐き、重たそうに腰を上げると、銀色の海を見てまた一つ嘆息をこぼす。
「兄ちゃん、学生みたいだね。夢はあるかい」
「はい。言いませんけど」
男は噴き出した。「正直なくせして素直じゃないな」と何度か笑い声をあげ、僕の方を向いた。
「若さって無敵だよ。君みたいな若者が街では夢を求めて奮闘している。君は負けるんじゃないぞ」
君は、と言った意味を悟れないほど僕は鈍くなかったらしい。
「ありがとうございます」
「それでいい」
困ったように笑う男は、たぶん本気で僕のことを応援してくれたんだろうなと思った。
「死に損ないが喋りたくるのはみっともないな。また縁があったら、いつか」
男は僕の肩をひとつたたいて「昼間は悪かった」と言い残し、崖の上を去っていった。
その背を見送った僕の胸は、ひどくざわついている。
男の身投げを止められたから?
いや、違う。そうではない。
この胸のざわめきが求める答えは、それではない。
僕は知ってしまった。
海音の歌が、死の歌だったと。
あの男は彼女の歌に導かれて、崖から身を放ろうとした。
海音の歌声が、男を死へいざなったのだ。
死の歌を否定しないと言ったけど、彼女の歌が死の歌であると思ったら、体中の血管が縮んでいくような心地になった。
「夏樹さん」
背後から名前を呼ばれた。
声の主は海音だった。
今まで何が起こっていたのかを知らない彼女は無垢な顔をしている。
「海音……いつの間に」
今の出来事は話すべきだろうか。
いや、よそう。
それを知れば彼女はどんな顔をするだろう。
見なくていいなら見たくない。
なんだか、今日は疲れてしまった。
その日は崖を後にした。
今宵も見送ってくれる海音を背に、
『夏樹さんの歌は生の歌です』
そう、脳裏にこだまするのを後ろめたく思いながら。