お盆も過ぎて、客足の減った海水浴場。空にはトンボも飛び始めている。
買い出しから海の家に戻ってくると、どこからかのぶとい鼻歌が聴こえてきた。
……厨房だ。
「ふんふん、油汚れにゃミカンの皮ぁ。お袋ちゃんの知恵袋ぉ」
「おやじさん、買い出し行ってきました」
「おう、早かったな」
「何の歌ですか、それ」
「おい、聴いてたのかよ」
「聴こえてましたよ、店の外まで。良い声してますもん」
おやじさんは地元じゃ古い漁師らしい。しゃがれた声も、荒波に揉まれた嵐のなかで鍛えたものだと言っていた。
日頃おやじさんは鼻歌くらいやってるけれど、人混みも薄れた今日はよく遠くまで漏れ聞こえていた。
「今のは漁師さんの歌ですか?」
「ちげぇよ。俺の、おりじなるそんぐだよ」
「おりじなる、そんぐ?」
言葉のなまりがひどかった。
「お前、いつも夜中に出歩いてるらしいじゃねえか」
「ぎくっ」
「毎晩こそこそ出歩きやがって、どこに行ってんだ」
おやじさんの荒くれ者みたいな顔が近づいてきた。正直とても怖い。
「えぇと、その、ちょっとそこまで」
「そこって海しかねえぞ」
「あっ、そうですね、そうですよね、あははは……」
ずずい、と角ばった顔が視界を占める。
この眼に嘘を言おうものなら明日の魚の餌にされそう。
住み込みで働きに来ている身分で、夜に出歩くとはけしからん。というわけか。
ましてや異性に会っているとはなんて不純な……いや、そんな事はしてないけど。
「はい……勝手なことして、すみませんでした!」
額を机上にに押しつけた。怖い、すごく怖い。
おやじさんは怒ると何をするか分からない。後悔も遅い。今は後の祭りでほぞを噛んでる袋のねずみ。祇園精舎の鐘の声に閑古鳥がハモってる。
現実逃避の冗談ばかりを考えて十秒も経っただろうか。
いや、経っていない。
おやじさんは言った。
「いや別に謝れとは言ってないんだが」
「はい?」
「毎晩そこらへんで歌の練習してんだろ、クソ真面目なお前のことだから。熱心もいいが、あんまし夜更かしすんなよ。潮風浴びると風邪引くぞ」
おやじさんは麦茶のグラスを一気にあおぐと、空いたテーブルを片付け始めた。
「え……あ、ありがとうございます」
いや、クソ真面目って。
僕の返事に合わせて、外でトンビがまぬけに鳴いた。
「それにしても表情豊かだな、お前。すぐに顔に出るよな」
「よく言われます。友達とかにも。嘘とか冗談は、結構苦手で」
「なんにせよ、無茶はするなよ」
食器を重ねたおやじさんは自然な感じで「それと」と、言葉を継いだ
「海辺の崖には近づくなよ」
「……なぜですか?」
「危ないからに決まってるだろう、絶対に行くなよ」
「はぁい」
「ほら、買って来たもん奥にしまっとけ。仕事だ仕事」
そうだった、テーブルの上に置いていた買い物袋を持ちなおし、厨房に向けて足を運んだ。
笑い声が起きた。
「ずいぶん素直じゃないか、君ぃ。なあ大将の話ちゃんと聞いてたか?」
しゃっくり混じりで呂律もおかしい。カウンター席から赤い顔が僕を見ている。
たしかあの男は、始発で来てからずっとあそこで酒ばかり頼んでいた客だ。
「よく考えてみろ、大人が子供にダメっていう理由をよ。大概見られたくないウラがあるからに決まってる」
「ちょっとお客さん、ウチのもんに絡まれちゃ困りますよ」
おやじさんが僕に巻きつこうとする酔っ払いの手を払いのけた。
「んま、誰かやらかすと思ったんだよ、あんな場所。フツー考えりゃまず行かねえもんな」
「夏樹、お前は相手にしなくていい。冷蔵庫に食材しまっとけ」
いつもなら社会勉強だ、とか言いつけて僕に行かせてたのに、おやじさんの様子が変だ。
「ま、そもそも辺鄙な田舎さ。これくらい話題性のあった方が客を呼べるし、金も儲かる」
声の大きな酔っ払いは近くにいるだけでも、顔をしかめたくなる。吐息に酒の匂いが濃い。
「……奥に行ってます」
「まぁ待ちなって、君」
いきなり男が、身を前に乗り出した。その拍子。男の腕がテーブルの上の皿を殴った。床に落ちた皿は嫌な音で破片を散らした。
「ちぇ、やっちゃった。こんな所に置いとくなよ。大将、この皿、いくら?」
男は面倒くさそうに財布を出して、中身の紙幣を覗かせる。
……それが、物を壊した相手への態度なのか。
「あの、まずは謝るのが先じゃないですか」
僕の言葉にトゲを持たせたのは、男の態度の他にもある。酔っ払いの相手に嫌気がさしていたこと。男が落とした皿に料理が残っていたこと。僕の好きな場所をわるく言ったこと。
もちろん酔っていても相手は中年。大人だ。僕が思うほど声に勢いは出せなかった。
「この海は素敵な場所ですよ、悪く言わないでください」
「こんな潰れそうな船小屋の小僧が、この私に意見するのか」
「……なんだと」
「出る杭は打たれるよ少年、綺麗事を言うには力を持ってからにするんだね」
「おい夏樹、気にするな」
おやじさんの言葉を下品な声が笑いとばした。
「金がなけりゃ何をする、何ができる? 所詮この社会はな、金の動きの読めねえ奴から夢も語れず負けてくんだよ」
「…………」
この男、もう関わるのはやめておこう。
「最近の若い奴は世間知らずだからな。ここは一つ、この海のウラとは何か教えてやるよ。……幽霊だっ。幽霊が出るって噂なんだよ」
「は?」
自分でも驚くくらいに間の抜けた声が出た。
大きな声でなにを言うかと思えば、そんな事か。幼稚な冗談しか言えないのか、酔っ払いとは。
「ちょっと昔、崖から落ちて死んじまった人間がいるらしいからな。一部じゃ有名な話だぜ。それに噂のおかげでこの海は知る人ぞ知る……」
大きな衝撃が店の空間に鳴り渡った。
「お客さん」
おやじさんの野太い声が店の中に轟いた。
「お会計は、三千四百円です」
テーブルの上には、伝票が叩きつけられていた。台詞にいつもの愛想はかけらも無かった。
「あ……う……」
「よろしいですね?」
「お、おう、釣りはいらねえ、二度と来るかっ」
男の口は、泡を食ったような動きをした。代わりに財布から多くの紙幣をテーブル上に放り投げ、逃げ去るように出て行った。
おやじさんの底響きのした言葉だけが耳に残る。二度と消えそうにないくらい、恐ろしい音だった。
「………………」
「おやじ、さん」
「……わぁいっ、お仕事お仕事るんるんるーん!」
「……おやじさん?」
「冗談だよ、冗談。今のは俺の、ひっさつわざだ」
「冗談にしては恐ろしすぎです」
「驚かせて悪かったよ。たまにいるんだよ、あぁいう本当に面倒なの。忘れろ忘れろ」
店に人がいなかったから良かったものを。おやじさんはすっきりしたように笑顔を見せた。
「ほら、洗い物がたまってるぞ。仕事だ、仕事」
そう言って、床に散らばった皿の破片と料理の残りをオイオイ拾い集めるおやじさん。
僕も、その後は仕事に戻った。
この日もそれなりにお客さんは入ったが、初日に比べてだいぶ少なくなってきた。
改めて思うのは、酒飲み客には気をつけよう。
そういえば、酔っ払いを追い返したおやじさんの拳が震えてたように見えたのは、気のせいだったんだろうか。
「どうしました夏樹さん?」
「わっ」
ぼんやりと波の往来を眺めていると、海音が顔をのぞき込んできた。足元から視線を上げる。
「じぃっと遠くを見て、考え事ですか。もしかして疲れてますか」
「ううん、何でもないよ」
そんなに浮かない顔を僕はしていただろうか。
小首をかしげて、考えるそぶりを見せる海音。やがてぱちんと手を合わせた。
「歌はできましたか?」
「もうちょっと時間をくれない?」
まだ一日しか経ってない。
彼女は笑う。
「冗談ですよ、でも楽しみにしてますからね」
「ああ頑張るよ。アイデアはいくつか浮かんでいるんだ」
嘘をついた。何も浮かびやしなかった。締切前の作家みたいな言い訳をまさか僕がするなんて。
気にかかってしまうんだ。酔った男のあの言葉が……じわりじわりとにじみ出てくる戯言が。
「へぇ、どんな歌になるんだろうなぁ」
ああ、もうよそう。僕には関係のない話。
早く歌を作って、彼女を喜ばせたい。考えるのはそれだけで充分だ。足元の砂を軽く蹴った。飛び散る砂が、打ち寄せる波に揉まれて、消えた。