「起きろぉっ、いつまで夢見てんだ!」
「ふぁ、ふぁいっ、朝ですかっ」
翌朝はおやじさんの野太い声で目を覚ました。
学校が夏休みの今、僕は、知り合いの紹介で働きに来ていた。
バスを幾つも乗り継いで、峠を何度も越えた漁村。そこは小さな海水浴場が広がっていた。
行き着いたのは古びた船小屋。海の家とのぼり旗には書いてある。古くて狭くて壁は潮で黒ずんでいる。
そのくせお客さんはすごい数。
地図にも乗らない小さな海でも、水は青くて浜の白い、密かに人気の場所らしい。
仕切っているのは白髪頭に日焼け肌のおやじさん。腕は丸太みたいな大きさで眼ヂカラが強い。
「お、おやじさん、朝って、まだ五時じゃないですか」
「始発のバスでお客さんが来るのは八時過ぎだ。買い出し、掃除、料理の仕込み。仕事は沢山だぞ」
「あ、朝早いんですね、海の家って」
「客商売はそんなもんだよ……分かったら、さっさと顔洗ってこい!」
「は、はいぃっ」
その声の大きさとしかめ面の恐ろしさったら。海の男どころか、海の荒くれ者でまちがいない。
僕はおやじさんの機嫌を損ねないよう素早く身支度を整えて、あくびを必死に抑えながら、箒を片手に店の表に出て行った。
やがて陽は昇りだし、蝉の声に招かれた海水浴客がご到着。どやどやと海辺が賑わしくなる。
「そおら、今日も仕事だ仕事! 夏樹、注文とってこい!」
「は、はいっ」
夏の海は大賑わい。息つく間もなく押し寄せてくる人の波。海の家には色んな人がやって来る。
突然おどりだす酔っぱらい。焼きそばに青のりをかけまくる人。店内で水鉄砲を乱射しまくる子ども達。そこはまぁ、大人の対応で何とかできる範囲内。
厄介なのはだらだら居座るアベックだ。こんな暑い時期にくっつかなくてもいいじゃないか。しかも混んでる時にイチャつかれると堪らない。
追い出す役目は僕がしている。
「さっさと海に沈んで来いやっ」
「でかした夏樹っ」
そんな感じの海の日常。この喧騒が僕の昼間の日常風景。僕とおやじさんは嵐のように小さな店をくるくる回る。休む間なんてあるわけがない。
この生活がしばらく続くと、ちょっと人嫌いになりそうだ。
厳しい昼間とうってかわって、夜には静寂がやってくる。この村に泊まれる宿など無いものだから、みんな日暮れと共に帰るのだろう。
夜の帳が降りて訪れるのは、安息の時。
空をあおげば星が煌めき、耳をすませば脈打つ海がささやきかける。
この安心感、まるで大きなゆりかごに抱かれているかのよう。
たしかに疲労は重たいけれど、今の街では感じられない開放的な落ち着きは、鉛のような心と体を癒してくれる。
案外、ここでの暮らしも悪くない。
海辺の崖へ通うようになって数日が過ぎた。
寝付くのが早いおやじさんの元から抜け出すのは今となってはお手の物。カレンダーは八月の頁をめくり、海辺の夜はまだ蒸し暑い。
今夜も辺りを満たす静けさが僕の拠り所になっていた。
歌声が聴こえる。
「星がきれいですね」
「あっ、夏樹さん。いらっしゃい!」
「海音、今日の歌も良かったよ」
「ありがとうございます、夏樹さん」
岩陰から顔を出していつものあいさつ。今夜も彼女は幸せそうに歌っていた。
彼女の歌は、他で耳にしないものばかり。すべて自作の曲らしい。だからといって拙いなんて事はない。どれをとっても心震わすものばかりだ。
飾らない言葉は心に届く歌詞として。柔らかな旋律は心安らぐ音楽として。
ときおり彼女そのものが歌じゃないかと思えてしまう。
「また新しい歌を作ったのかい」
「夏樹さんの歌から新しい感覚をもらって、私なりに織り込んでみたんです」
「それが今の歌かぁ。海音、やっぱりきみは凄いや」
僕が言うと彼女は「えへへ」とはにかんだ。
「わたし、生まれてずっとこの海で暮らしています。わたしの音楽は海が教えてくれたんです」
「だから、そうなんだね」
「何がですか?」
「きみの歌。どこまでも広がるような世界を感じる。きっと沁み込んでいるんだね、海の音が」
「海の、音?」
「だから、きみの作る音楽は」
「海の歌! この海が奏でる音は、わたしの体を通じて言葉が乗って歌になってる!」
「そうに違いない」
海音の感性的な音楽づくりの才能は僕にはないものだった。いいや僕だけじゃない、きっと他の誰にも身につける事のできない細やかさと壮大さをその胸の中に宿している。僕にはそう思えた。
「夏樹さんは街で、どんな歌を作ってましたか?」
「そうだな、たとえば、こんなの」
口ずさんだのは最近作った曲。聴き終えた海音は、僕の歌をこう表した。目を大きくして。
「夏樹さんの歌は、顔を上げたくなります」
「か、顔を?」
「夏樹さんの歌は、空の高さを教えてくれるんです。精一杯に輝こうとする、星のような歌です」
両手をいっぱいに伸ばして、空をぐるんとなぞる海音に、続けてこんな事も言われた。
「夏樹さんって、歌ってるときが一番楽しそうにしてます」
「まぁ、そうかも」
「でしょう?」
「僕、自分に自信がないからさ」
昔から不器用で何でも上手くいかなくて。周りができる事を満足にできた覚えがなくて。
「でも歌は、歌だけは僕の言葉に出せない気持ちを表すことができるんだ」
「歌があなたの居場所なんですね」
僕は頷く。
僕には歌しかない。歌でなら、何かできそうって思ってた。
「だから同じような気持ちを抱えた人たちに、一緒に頑張ろうって応援する歌を作ってたい」
海音が僕の名前を呟いた。
そちらを見ると胸元で両手をきゅっとむすんだ海音がいた。
僕の想いに彼女は共感してくれたのかな、表情が言っている。
彼女には何でも話せてしまう自分がいると、今更だけど気づいてしまった。彼女はいつもきれいな瞳をまん丸にして僕の話に笑ってくれる。
今まで誰にも話していなかった事さえ、言えてしまいそうだ。
「夢があるんだ」
「……どんな夢ですか?」
「歌で世界を回ること。世界のいろんな国を回って、いろんな音楽に触れるんだ。歌は言葉が通じなくても、相手に気持ちを伝えられる一番の方法だって思ってるから」
「音楽に国境線はない」
「そういうこと。だから僕はもっと心を動かせる歌の力を身につけたいんだ。上に行きたい」
「上に」
「そのために街で頑張ってる訳だけど……まぁ今はご覧の通りって感じさ」
海音はかぶりを振って、歩幅を広めに岩場の上を歩きだす。
「夢を語れるって素敵だと思います。夏樹さんの歌、私は好きですよ」
海音の澄んだ声に認められると、首元がくすぐったくなってしまう。
「ありがとう。海音こそ、もっと聞かせてくれよ。君の夢についてさ」
「私は……今この瞬間に歌える歌がすべてです!」
くるりとその場で身をひるがえし、歌いだした海音の歌は、僕の書いた歌だった。けれど彼女の表現力から紡ぎだされる旋律は、僕が言い表せる世界とはまったく別の色をしていた。
夜空に響く海音の歌。彼女の幸せそうな姿を眺めているとこちらも心地が良くなってくる。
彼女の歌はそのあと曲を変えては途切れることなく、夜が更けるまで続いていた。
「夏樹さん、お願いがあります」
帰り際、海音は僕を引きとめた。どうしたんだろう、尋ねてみると真っすぐな目が僕を見た。
「歌を作ってください」
「歌を作る。きみにかい」
海音はこくんとうなずく。
「夏樹さん、もうすぐ街に帰ってしまうのでしょう? だから思い出が欲しくって」
「夏休みだけの間だからね。まだ十日はいるよ」
「お願いします! 夏樹さんの歌を歌わせてください」
押しの強さに何歩かさがる。海音がこんなに言うのは初めてかもしれない。
さがってから、はっとした。こちらを見つめる眼差しに、不安のような揺らぎが見えた。
「嫌、ですか」
「わかった。作ってみるよ」
僕はわりとあっさり引き受けた。
彼女の頼みだ。理由なんて問うのは野暮さ。
……なんて言えたら、どれほどイケた男になれただろうか。
単純に嬉しかったんだよな。彼女に頼りにされたのが。
彼女に歌を贈る? 最高じゃないか。
僕の答えで海音の頬に赤みがさす。
「ありがとうございます!」
何度も頭を下げられた。
「と言っても、題材は何にすればいい?」
「ここです。この、海です。夏樹さんはいつも何を感じていますか?」
「……下宿先のおやじさんのイビキがうるさい、とか?」
「もうっ、まじめなお願いなんですよ!」
頬を膨らませ海音は笑った。つられて僕も一緒に笑う。
夏休みは、残り十日。一曲作れない事はない。
理由なんて、いつか話してくれたらそれで良い。
あれこれ考えていると聞き覚えのある曲が耳に届いた。
「ぼくが笑っていたいのは、きっと明日も笑うため。いつか晴れる日が来るから」
また、僕が書いた歌だ。海音に続けて歌を受け取る。
「きっと大丈夫だよ。ぬくもりをあげよう」
僕が和音を乗せると、海音ははにかみ続きを歌う。
混じりけのない、まっさらな笑顔。
「ぼくは雨の空でも、きみと繋ごう、その手を」
薄い雲のかかった半分の月が昇る夜。
ゆるやかな時間に音楽の色が添えられる。
ああ、楽しい。
晴れやかな気持ちの僕がいて、隣で海音が笑っている。
この笑顔が見られるのなら、少しだけ頑張ってみよう。
そんな風に思った。