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星の音

 七月。僕は一人、夜の浜辺にいた。


 好きな歌を、ここなら思いきり歌えるから。


 歌で生きていく。


 幼い頃から抱いている、ただ一つの夢だ。


 素敵だと思わないか? 好きなことを通じて、誰かを元気づけられるのなら。


 けどまあ……現実は簡単にいくほど甘くない。僕を見てくれる人なんてほとんどいない。


 夢。響きばかりで手ざわりはなく、蜃気楼のような、いずれは消える幻想だ。


江藤夏樹えとうなつき、歌います」


 ともあれだ。たくさんの星と広い海を眺めて大きな伸びをする。


 喉を鳴らし、呼吸を整える。


 ひと気のないこの海は、歌うのにぴったりの場所。


 揺れる水面が見えるくらい、今夜は月が明るい。


 深い色をした海はやすらかに揺れている。


 いっそ足を踏み入れて、その奥底まで沈んでいこうか。


 そんな縁起のわるい冗談は、あたりの暗さに湧きでる不安のまけんき。


 眼を閉じる。肩の力を抜く。潮の香りをたっぷり吸う。


 そしてゆっくりと、まぶたを上げる。


 口をひらけば、明るいメロディが心に走った。


 歌うのは、まっすぐな気持ちをこめた歌。


 歌が好きだ。すなおな想いを音に乗せ、僕はありのままに夢を描く。


 夜空に輝く星たちへ、この砂浜から手を伸ばし、遠くに浮かぶ未来を語る。


 想いのままに言葉の響きを音で紡いだ、自分のための応援歌。


 ここは、そう。観客のいないコンサートの会場だ。


 僕には見える。月明りのスポットライトに、果てが見えない大きな会場。


 風は観客たちの圧倒的な迫力で、潮騒は彼らのやまない拍手のようだ。


 海は僕を認めてくれる。


 いつかを夢見る僕のために、ひとときの『いつか』を与えてくれる。


 世界の夢はいま僕だけにあり、世界の夢は僕が音によって紡ぎ出すんだ。


 目に見えないものを伝えることが、歌うことへのよろこびだから……。


「……なんだろう?」


 ふとした事に気がついて、僕は歌うのをやめた。


 僕は、耳を澄ました。


 海の音に紛れて聞こえてきたのは……誰かの歌う声だった。


「きれいだ……」


 思わずそうこぼした。


 気づけば歌声に導かれ、僕は浜の小高い崖の上。


 岩陰から覗き込むとたくさんの人影がうごめいている。


 何をしてるんだろう。


 不思議に思って見ていると、その輪の中で一つだけ、目を惹く姿が中心にいた。


 少女だった。


 一人の少女が、歌っていた。


 ごつごつとした崖の上。旋律を奏でる細い影。


 たおやかな子だと思った。けれど確かにある情熱が大きな瞳を輝かせている。


 星空を背負う少女。その光景はまるで一枚の絵画を見ているようだった。


 だけど『きれい』と言いたかったのは景色じゃない。


 歌声だ。


 夜に響く澄んだ声。


 海と空の境界をつむぐ糸のように、繊細でのびやかな自然の広がりを思わせる。


 言葉すら一つひとつが胸の奥を撫でるよう。


 音色の響きは、透き通った絵の具のはけで、心の柔らかい所に染み込ませるよう。


 美しい……ただ一言の感じた言葉。誰もがそう思ってしまうに違いない。


「君も聞きに来たのかい」


「え?」


「君も聞きに来たのかい、あの少女の歌を」


 不意に見知らぬ男性が話しかけて来た。随分とくたびれている。


「どうだ彼女、見事だろう。皆、毎晩あの歌を聞きに来るんだ」


「は、はぁ」


「どうした、君はあの輪に加わらないのかい」


 少しとまどいながらかぶりを振る。


「本当に素晴らしい歌声だ。あの声は、この世の嫌な事を忘れさせてくれる……」


 男性はそう言って、少女を囲む輪に消えて行った。


 それから僕は少女の歌を岩陰から聴いていた。


 聴いたこともない歌が、風に乗って耳に届き、やがて少女の歌は終わった。


 僕は動かなかった。理由は単純。心が震えてしまっていたから。動けないんだ。


 余韻で力が抜けていた。背中を岩に預けている。


 ……感動した。


 そうか僕は、彼女の歌に感動したんだ。信じられない、だって僕がこんなに…………。


「……彼女は誰なのだろう」


夜風に吹かれながら、ぼうっと夜空を見ていたその時だった。きみが話しかけてきたのは。


「私のことですか?」


「わっ」


 耳に届いた、透き通った声。僕は慌てて振り返った。


「こんばんは。星がきれいですね」


「き、きみはさっきの歌の」


 あの少女が、そこにいた。


 白い。


 最初に受けた印象だった。


 後ろ手を組んで微笑を向ける彼女はまさしく、あの歌声の少女に違いなかった。


 なんて綺麗な声なんだろう。あの少女が自分に話しかけるだなんて。


 胸が高鳴る。


 日焼けのない肌は、夜の中でも白さが分かる。清楚な雰囲気を醸していながら、あどけなさを感じるのは、大きな黒目のせいだろう。


 僕は言葉に詰まっていた。


 その可憐さは、さわれば散りそうな花のようで、僕は必死で話題を探した。


「ほかの人達は?」


「もういませんよ。残っているのはあなただけ」


「ここにいたって、気づいていたの?」


「えぇ、もちろん」


 少女は目元にきれいな弧を描いた。穏やかな笑みを前にすると、僕の鼓動は不思議と静かになっていった。


 少女は長い髪を風に揺らして、その目に僕を映し、くすりと肩を上げる。


「きみは一体……」


 何だか気恥ずかしくて、うつむきがちに尋ねる。


「わたし、歌が好きなんです」


「歌が?」


 少女は小さく笑う。


「こうやってみんなの前で歌って、みんながシアワセになれるのなら、わたし嬉しいんです」


 楽しげに話す少女に、おずおずと僕は言う。


「うん、それ……すごく伝わった。なんだか元気をもらえた気がするよ」


 すると少女はぱっと目を大きくして、こちらに向き直った。


「本当ですか?」


「本当だよ。きみの歌、すごく素敵だった」


「うれしい……ありがとうございます」


 少女の顔がほころんだ。自然な笑顔につられて僕の表情も緩んでいく。


 少女は岩から立ち上がり言った。


「あなたも歌が好きなのでしょう?」


「わかるの?」


「聴いてましたよ、浜辺から届いてくるあなたの歌。とても素敵でした」


「いや、そんな、僕なんて」


「本当ですよ」


 少女はくるりとワンピースをひらめかせ、空に浮かぶ月を見た。


「わたし感じました。あなたの歌を想う気持ち。歌が本当に好きなんだってまっすぐな気持ち。わたし、あなたの歌とても好きです」


「僕の歌を、好き?」


「はい! たしか、こんな歌でしたよね」


 そう言って少女は瞳を閉じた。静かに息を吸い、歌い始めたのは、僕の歌っていた曲だった。


 遠くの浜でたった一度、歌っていただけなのに歌詞やメロディは完璧だった。


 僕の歌であるはずなのに、彼女の声に導かれるのは、まったく知らない世界だった。


 伴奏のないア・カペラ。


 明るい夜に響く歌。無邪気に歌う白い姿が、僕を幻想世界に引き込んでいく。


 美しい旋律に抱かれた世界。夜空の星が地上に降りてきたようだ。


 星々が散る海辺の崖は、まるで音楽の彩りで満たされた。


 ……好きか。


 初めて言われたよ、そんな事。


「……みおです!」


 歌い終えた彼女は頬の色を高ぶらせていた。


「わたしの名前。海の音と書いて、海音みおって言います」


 海音と僕は、いろんな事を話した。


 僕は彼女の知らない街について話をした。彼女は海の話を僕にたくさん聞かせてくれた。


 海音の言葉の端々からは、この海が本当に好きなんだと伝わってきた。


 あぁ、もちろん。歌の話も思い思いに語り合えた。


 海音は目を輝かせながら音楽について楽しそうに話してくれる。


 子どものように笑う子だなあ……。


「夏樹さんって、よく笑う人ですね」


「……そうかな?」


 海音は不思議な少女だ。


 出会って間もない僕らが名前を呼び合うまでに、多くの時間はかからなかった。


 浜辺に波がよせてはかえす。


 緩やかな世界の中で、僕らは月の進むはやさを忘れて、夢中で語り合っていた。


「いけない、こんな時間だ」


「どうしました?」


「明日も仕事が早くって。そろそろ帰らないと」


「そうですか……どうか気をつけて帰ってくださいね」


 名残惜しそうに海音は言う。ありがとう、と言いながら僕は腰を上げる。


「そう言えば海音、きみは? よかったら送るよ」


「いいえ、わたしは迎えが来るので」


「そうなんだ、じゃあ行くね。楽しかったよ」


「こちらこそ、夏樹さんとお話しできて良かったです」


 海音に見送られて僕は帰り道を駆けだした。


「そうだ」


 十歩くらい進んで、立ち止まる。


「なあっ、また明日もっ、きみの歌を聴きたい!」


 振り返って言う僕に、海音はにこりと笑って手を上げた。


「わたしはいつでもここにいますよ」


 満天の星空の下でほほ笑む彼女は、やはり美しかった。


 今夜は良い夢を見られそうだ。


 潮の香る風のなか、夜道を走る僕の心は、穏やかな昂ぶりを感じていた。



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