サヤ。
私が自分の名前を知ったのは、ある少年がそう呼びかけてくれたから。
いつだって一緒にいてくれた彼を、私は守るようにプログラミングされていた。
でも、いつからだろう、その少年は私を守ると言ってくれた。
だけどそれっておかしな話じゃないのかな。
私は機械。
どうしてそんなに優しい目をしてくれるのだろう。
人間って、不思議だなあ。
目を覚ますと
一つに編んだ麻色の髪と起きたばかりで重たい瞼の隙間から琥珀色の瞳が、窓に映った。細い首筋の曲線に沿って首飾りの紐が伸びている。今となっては小さくなった民族模様の装飾が体と一緒に揺れるさまを、寝ぼけ眼で眺めていた。
「お目覚めですか、サヤの姫様」
運転席からバックミラー越しにシビリオの明るい声と日焼け肌がこちらを覗いた。彼が機械でできた右腕でハンドルを回すと、遠心力に振られた私の体も前方向につんのめる。
「うわわっ」
シートベルトのおかげで転がり落ちずに済んだ……。
「あっはっは、ごめんなさいね姫様、六輪車の操作はまだ慣れませんわ」
シビリオはからから笑いながらしきりにハンドルを回したがる。今ので眠気は完全に飛んでしまった。言葉ではそう言ってるけど、果たして謝る気があるのだろうか。
「もぉパパ、ダメだよ! サヤさまをびっくりさせたら!」
「ふぁーっ、ハルカごめんなぁ! 姫様ほんとすみません」
私の横でチャイルドシートに据え付けられた幼い少女、ハルカが頬を膨らませて運転席のシビリオに言った。切り返すような速さで詫びを入れきたシビリオだけど、だから本当に謝られている気がしないんだってば。
「まったく……安全運転でお願いしますよ」――とはいえ、このダイナミックな車体の揺れは冒険心をくすぐられるみたいで、わりかし愉快に思っている。
シビリオの娘のハルカはもう五歳になる。まん丸とした黒目とウェーブがかった茶色の髪は父親似で、性格はきっと彼女の亡くなった母親譲りだろう。
シビリオは元々、作物管理の役職持ちだったけど、
そして何より……。
「サヤさま、見てみて! おっきな橋だよ、すごいね!」
「ふふ、あれがバンナ=ボトムと王都を結ぶメーカストン大橋ですよ、ハルカ」
「わぁ……車が沢山いるね、こんなに人っているんだ。ねえねえサヤさま」
「なんですか、ハルカ?」
「外の世界って、すごいんだね!」
見るものすべてに喜ぶハルカがかわいくて仕方ない。私の袖をつかんでにんまりと笑む表情が眩しすぎる。あぁ、私の癒し……。従者の娘だから見聞を広げさせる名目で無理やり連れてきて正解だった……。
「もしもし姫様、顔、顔。ジプスのお姫様として凛々しさを」
シビリオに言われて我に返る。いけない、思わず顔が緩んでいた。
「俺達は特別な式典に参加するため王都に向かってるわけですから、くれぐれも素に戻らないようお願いしますよ」
「わ、わかってます! ボトムに残してきた皆の代表として、きちんと振る舞います!」
そう、今日は王都で催されるパレードに参列するためにやってきたのだ。王都……またの名を人類最大の都〈アマルハラ〉。歴史的に古い世界の中心部で、
高度知的無機生命体・
民族集合体〈ジプス〉は
今や私は「巫女」ではなく「姫」なのだ。
そんな風に格式を重要視する行事へただいま出向いている訳で。序列の新参者として引き連れてきた従者の数は他の首長達に比べるとコンパクトに収めている。私達三人が乗る六輪車が一台に、従者を乗せた八輪車が三台。戦場跡で拾った軍のジャンク品を集落のみんなが見栄えよく改修してくれた。
いかつかった砂色の輸送車はジプスの紋様である空色の象形をあしらっていて、ちょっと不格好かもしれないけれど、愛着も沸いてすっかり私のお気に入りだ。
幌の窓から差す光の加減が変わった。シビリオが興奮した声をあげる。
「さあ、いよいよこの先は王城の地アマルハラですよ!」
橋へと続く門をくぐると車窓の眺めは一変した。どこまでも広がる果てしない海が待っていた。真っ青な空を反射させる海原は、評判通りたくましい白波を渦巻かせている。メーカストン大橋から見下ろす渦潮は旅人に受けている景観らしい。
「わあ、パパ、サヤさま! すっごぉい、これが海なんだね、真っ青だね!」
「よぉく見とくんだぞハルカ。帰ったら皆に土産話をたっぷりするぞ、ですよね姫様。……姫様?」
「あ……ごめんなさい、ちょっと考え事をしていました」
「ふぁーっ、姫様ってば緊張してきちゃいましたか? リラックス、リラックス」
運転席の声に合わせて隣のハルカが肩をポンポンと叩いてくれる。けれど違うの。想いを馳せていたのは、ある日の夢で見たような、美しい瞳。海のような青い目を、その少女は持っていた。
……真っ青な、凛と佇んでいた彼女。
現像できない写真のように、あるのはぼやけた記憶だけ。
彼女は今、何をしているのだろう。海を見るたび、ふと思い出す。
六輪車がやがて止まり、幌から身を晒すと、彼がいた。
「姫」
「カズマ」
ステップを降りて、彼と向かい合う。久しぶりに会うので自然と胸がきゅっとすぼむ。
「サヤの姫様、此度の無事のご来朝、祝着至極に存じます」
「えぇ、お出迎えありがとう。執政補佐官」
それは彼が王都で与えられた役目の名前。紺色を基調とした役人服で、シルバーの肩
章にはこの都市の旗印である日輪に
ジプスを自治領として認める代わりに、王都は導師カズマに区画管理の職務につかせた。公務役場に名を置かれ、参勤交代というシステムのもと、半年ごとに王都とジプスの居留地の往復勤めを続けている。私達が安全なコミュニティを築けているのはカズマが中央との架け橋を担ってくれているからだ。
およそ半年ぶりに会ったカズマは相変わらずまっすぐな目で私を見てくる。けどやっぱり会うたびに大人の雰囲気が濃くなって見える。
「集落の方で、何か変わったことは?」
「子どもが三人生まれました。あとは先日の通信どおり、みんな元気ですよ」
「そうですか。確か、ディディバ=ボトムの第二区画を今は流れていると」
「はい。まっさらな草地の広がる高原です。空気がよく、家畜ものびのび育っています」
「それはよかった。姫の方にお変わりは」
「最後にあなたに触ってもらった日のままです」
後ろで何かを吹きだす音。シビリオがむせていた。
「あ、あのカズマさん、サヤの姫様、場所を替えましょう。せっかくの再会で立ち話もなんですし」
「……そうだな」「そうですね」
カズマの案内で迎賓館に通された。メーカストン大橋から王都の中央に向かってしばらく行った大通りの隣の筋に、豪奢な建物が構えられている。私は従者達と海を見下ろす館に入った。ここでパレード前に王宮へ挨拶に上がる支度をするのだ。
王都は人が多い。道行く人々に手を振られるし、写真は何枚撮られた事か。それもそうだ、パレードは世界中の偉い人が一堂に会する祭典で、目的は人心に活気を起こすことなのだから。
「……よし、楽にして良いぞ、サヤ」
「ふへぇ、緊張するなあ」
迎賓館で用意された私の部屋は広い。立派なソファや調度品、ふかふかな暗紅色の絨毯で王都文化の気品を滲ませている。私はカズマに背中を向け、もろ肌を露わにさせていた。長い髪は編み込みを解き、彼の視界を妨げないよう胸の方に寄せている。空調の風が裸の背筋をなぞって涼しい。
何てことはない、半年に一度の定期点検だ。
「たまにしか見てやれないからな、厳しめにチェックしとかねえと」
「そんな事言って、本当はじろじろ見たいだけなんでしょ、大人バージョンの私の体を?」
「バッキャロウ。俺が作ってやった体だぞ、んな事考えるか、バカサヤッ」
「いったぁーい!」
背中のハッチをカズマに思いきり閉められた。壊れたらどうするのよ!
「大丈夫だ、お前はとびきり頑丈な設計だ」
「そういう話じゃなーい! もっと優しく扱ってよ、私、プリンセスでレディなんだよ?」
「へいへい」
「もぉ、二人になった途端こうなんだから」――彼の態度に頬が膨らむ。
カズマの王都出向が決まった二年前。私は半年間も会えない事にそれはそれは心痛めたものだった。お別れの前夜、私は彼から初めての言葉を受け取った。「愛してる」と言ったのだ。
お互いに、気持ちは一致していた。
遠く離れた場所で頑張るカズマを想い今日までずっと頑張ってきた。ずっと会いたかった。
なのに、なのにぃ……! 両の頬がもうはちきれそう。
「仕方ないだろ。半年ぶり、なんだしさ」
何か聞こえた。
「ぎょっ」
私にそんな声を出させたのは、振り返って見た、ベニカブみたいな顔だった。
カズマが、真っ赤。
「俺達いつも務めの途中だろう、顔をまともに合わせるのって。こういう風に二人きりになった時どんな顔したらいいのか、気持ちの切り替えに慣れねえんだよ……言わせんな、恥ずかしい」
視線をあっちこっち移動させては何やらゴニョゴニョ言っている。組んだ手の指同士をくっつけ合ったりしているし、さっき王都の入口でデキる男のように振る舞ってた片鱗は皆無である。
私はそんな王都勤務の執政補佐官を前にして、しばし思考が固まりかける。
あぁ思い出した……カズマってそういうのを表に出すのが極端に下手な人だった。
「さびしかったの?」
私が問うと、彼は無言でこくりとうなずいた。「カズマ」私が呼ぶと、彼はこちらを見た。
「……えい」
「むぐ」
私はその顔を両手で挟んでみた。カズマの肌の感触が手のひらや指先に伝わる。
「カズマ」
そして、私と同じ高さに持ってきて、その目を見つめる。
「……なんだよ」
「愛してます」
「ぶっ」
大きな黒目があっというまに小さくなった。私は表情を変えずに、言葉を足す。
「カズマの方は?」
指に伝わるカズマの頬がますます熱くなるのを感じた。彼は時間をかけて、口にした。
「あ……あ……愛してるよ」
私は思った。
「なに、このかわいい存在」
「おい口に出てんぞ」
眉根にしわを寄せる彼に私は堪えきれず、吹きだした。ああ、好きだな、カズマのこういう所。
イエスかノーで物事を判断していく機械と違って人間の、カズマのこういう不器用さがたまらなく愛おしい。どこまでも曖昧で、手間がかかって、面倒くさい。私はそんな彼らの事が大好きだ。
カズマの瞳をまっすぐ見つめる。つるりとした彼の瞳に私の顔が映り込む。いたずらな笑みを浮かべる女性の顔。二代目である、サヤの顔が。
初代のサヤはガナノで果てた。
そう、私は一度、命を落としている存在だ。
五年前の戦いで、私は
結果として人格記憶装置である首飾りは、乱戦の中で私の命と一緒に焼失した。
ただしそれは、
カズマが実行コマンドを命令する直前に――逆ハッキングを強行するタイミングで――首飾りの記憶領域を司る部品をもぎ取っていた。
生還したカズマは首飾りの欠片から〈サヤ人格〉を抽出し、私の存在を復元した。ずいぶん時間がかかったらしい。生まれ変わった私は幼い少女の見た目をしていなかった。
女性だった。
前の姿の年齢が十二歳とするならば、今の私は十八歳をイメージできる。二〇歳になったカズマの横に並んでも遜色ない、オトナのレディらしい魅力的な体つき。
……と言いたかったのに、なにせ制作者はあのカズマだ。さっきの様子を見てわかるよね。女っ気の薄い彼だもんね。と思うようなシルエットに落ち着いている。
「もうちょっと欲張っても良いのに」
とか色んな不満を乗せて言ってみたり。フン、とカズマは鼻を鳴らした。
「良いから早く服を着ろ。ほれ、従者が運んできた着替え」
「ぷぅ」
カズマに手渡された姫巫女の服を着る。乳白色のひと繋ぎになっていて、背中でコルセットの紐を締めるつくり。ジプスの象形の一つである天地人を示した連なりの三角形がデザインされている。
「……どうしたんだ?」
「ねぇ、締めて、背中の紐。一人で着れないの持ってきちゃった」
ワンピースの背中が開いているのをカズマに見せた。腰の左右を、ツン、と引っ張られる感覚がして、コルセットの紐が締められていく。
「……ねぇ、カズマ。覚えてる?」
「なんだ?」
「私ね、最近になって気づいたんだ。記憶が抜け落ちている部分があるって」
「…………」
受け継いだ記憶は完全ではない。所々がぼやけた写真のようになっている。
私はカズマが好き。それはずっと昔から人格データにある情報。だけど、前のサヤが死ぬ直前――首飾りの記憶が途切れる直前、私の中には新しい
ラベルだけが残った記憶の中身に心当たりが見つかったのは、つい最近のこと。
「あの日、私とカズマとモトリの他に、もう一人いたよね?」
カズマの手が止まった。私は続けて確かめる。
「名前が思い出せないの。アオキ村を訪れた旅人さんだよね」
下げたままの首飾りを手に取る。返ってくる言葉を待たずに、背後のカズマに言う。
「私たちは彼女と出会って一緒に過ごした。それで私は充実を感じた。その感覚だけが残っているの。いいや……これだけしか残っていない。教えて。彼女は何者だったの?」
ずっと考えてきて、ようやく至った。
青い瞳をした少女。彼女はずっと、あの時あの場所で何かを私に叫んでいた。
「お前と俺の友達だ」
微笑むような声がしてから、背中のコルセットを結ぶ紐がきゅっと締まる音がした。
それから私はカズマやシビリオ達を連れて王宮に上がった。パレードを控える宮殿前の大庭園で、人類王が世界中の首長達に総謁見を行うのだ。遠隔参列をする地域もあるようで、複数のモニターカメラが礼を尽くした台上に据えられている。報道関係の集団も多く来ていた。
人類王の総謁見はとても盛大で厳粛な物だった。大庭園から仰ぐ宮殿の
民衆とふれあうパレード本番は明日だ。式典が閉じ、交流のある首長達とも辞儀は済ませた。人気もまばらとなり私達も迎賓館に引き上げようとした時「もし」――「はい?」誰かが私を呼び止めた。
振り返って一目見ようとした、その時のこと。
(あ……)
私は視界に明度の異常が起きたと思った。世界の色が、変わった。真っ白なスクリーンに薄紅色のしずくを落としたみたいな変わり方。私は、いつかの過去に想いが巡った。
誰かの話を覚えているのだ。
それは――綺麗な服を着て、たくさんの飾りをつけた、華やかな人。
ずっと憧れていた。何度、そのお顔と名前を夢に描いた人だっただろう。
私はすかさずワンピースの裾を持ち上げ、私が知りうる最も丁寧な挨拶をした。
「初にお目にかかります、ジプスの姫巫女サヤ・ルビラダでございます」
アマルハラ王位階梯第六位。人類の希望と名高きその人の名は、ホワイテ・アマツフィア様。
人類のお姫様だ。
貴き姿に私は二の句を継げずにいた。
「貴女は作られた存在ですね。私には分かります」
お姫様は私を見てすぐそう言った。
「なぜお分かりになられたのですか」
「目を見て話せば、すべて」
お姫様はそう言って、微笑みを浮かべて続ける。自然に言葉を返してしまったと後になって気づいてしまい、詫びを入れようとした私にお姫様はそっと手で頬に触れてそれを止めた。細くやわらかい指に私は頬を撫でられた。白金の瞳が私を映す。
「サヤ。貴女はそう、あの子と同じ」
「あの子?」
「貴女とよく似た女の子を知っています」
「……それは!」
この時、言い聞かされた人の名前を、私はすでに知っていた。
「いとおしい名前です」
お姫様も知っていたのだ。その少女の存在を。
「光……となっているのですね」
「えぇ」
王都を守る兵士達には、こう評されているらしい。
「疾風迅雷の剣さばき。戦場を駆ける姿は音すら置き去りにしてしまう、稲妻のよう」
王都直属の精鋭戦力・正規軍。お姫様が口にした一人の兵士はそこで勲章取りの英雄になってるそうだ。無欲で清らかな忠義の兵で、若き身でありながら王族への謁見を許された天才。
……この五年で、あなたはそんな凄い人になっていたんだね。
あなたを想うと、
「そんな武勇を誇る彼女を讃えてこんな異名を授けました。光のごとき音速の剣士……」
〈雷音のエリサ〉
彼女は今も生きている。
王都のパレードは大歓声に包まれた。かつての歴史に語られている日々の記録は、きっと今日みたいな慶びばかりが溢れていたりしたのだろう。誰もが笑いに満ちて、歌い、踊り、未来を描こうとして見えた。かくいう私も、引き連れていたお供達とすっかり上気してしまった。
世の中にはこんなに楽しい事があるだなんて。
そんな風に思いながら、私は一人、ある場所を訪れていた。
足が止まってくれなかった。
どうしても、呼びたがっているんだ、彼女の名前を。
ある時、ニュースで目にしていた。
二年前に現れた、前線の英雄。
女の身でありながら一腰の剣で活路を開く、電光石火の兵士がいると。
ニュースでは名前も顔も出なかったけど、今になって分かった。
間違いない、その英雄は、私の思い出に生きる、あの少女に違いない。
「……着いた」
分厚い門扉と、衛兵が景色となって目に映る。正規軍の駐屯所。
ここに、いるんだ。私の友達だった人が。彼女は覚えてくれているだろうか、たった三日間を共にしただけの私のことを。不安はある。果たして私が会った時、彼女と何を話すだろう。記憶の抜けた私を酷いと思ったりするだろうか、そもそも会ってさえくれないかもしれない。
それでも良い。勇気を出すんだ、私は、彼女にまた会いたい。
私は、これからも大好きな人と手を繋いで、生きていきたい。
それ、と思い切って駐屯所の前を通りかかった軍人に、その居場所を尋ねてみた。
――青い瞳の剣士の少女は今も元気にしているだろうか。
問い合わせを受けた兵士は、赤髪を揺らしてにかりと笑んだ。
「あぁ、エリサ・フォーチュン中尉なら今夜任務から戻りますよ。たぶん今頃どこかの戦地で、敵を倒しまくってるんじゃないですかね」
【了】