明日、死ぬために生きてきた。なんとも残酷な響きだ。死ぬと決められて生きるとはどんな気分なのだろう。死ねば皆に喜ばれる存在とは果たしてどんな人間なのだろう。
――サヤ。
少女の瞳に見えた光。あれは己の役目に何の疑いもなく生きている純粋な眼光だった。
暗い希望を宿した目だった。
肩に湯をかけた。湯けむりが視界をぼかしている。
「そんな顔するんですね」
「っ! サヤ様、いつからそこにっ」
「えへ、驚かせちゃった」
麻色の髪が水面に広がっている。湯けむりに隠れてサヤが隣に座っていた。
「巫女としては、ホントは清めた水で身体をすすぐのが正しいんだけど、今夜は雨で肌寒いからお湯に入るの」
「……そんなことが許されるのですか?」
「私を許せない人がこの村にいると思う?」
「……これはご無礼を。どうかお許しください」
「うんいいよ」
サヤはにんまりと得意げな顔だ。エリサと違い彼女は身に白い衣を纏っている。
「お話がしたくて待ってたんだよ。旅人さんを」
「私とですか」
「ですとかくださいとか使わないで。ここにカズマはいないし、普通にして」
「はぁ」
「まぁまぁ、裸の付き合いをしましょう、ねぇ旅人さん」
「あなたは着てるじゃない」
「はっ、そうだった!」
頬に手を当てショックを受けたサヤ。けれどすぐに表情を戻すとずいと琥珀色の瞳を丸くした。
「ねぇねぇ、旅人さんはエリサって名前だよね。なんて呼んだらいいのかな? ずっと聞きたかったの。あんまりお話してないし、ゲイツさんよりお喋りが苦手なのかなって思ってたんだ。そうそう、二人ともすごく綺麗だよね、私、髪が青い人って初めて見たよ」
止まらない。
「い、一個ずつ答えさせて」
「はっ、いけない! 困らせちゃったごめんなさい」
サヤは言いながら湯の底に沈んだ。
「そこまで落ち込まなくていい!」
湯の中で膝を抱えるサヤを引っ張り上げた。
「いったーい! 鼻にお湯入ったぁー!」
引き揚げられたサヤはゲホゲホとむせる。
「とりあえず落ち着こう?」
なんだか調子が狂う。
「呼び方はエリサで良い。他のは慣れない」
「えぇ、じゃあ……エリサちゃん!」
「……それ以外がいいな」
ゲイツの情けない顔が浮かんできたから却下。するとサヤは腕を組んでうーんと唸り、ぱっと顔を明るめた。
「エリー、エリーにしよ! よその人っぽくてかわいいから、エリーで決まり!」
小さな肩を上げ、目を輝かせたサヤは無邪気に言う。それを見てるとなんだか胸が温まる。
「エリーね、わかった。あなたの呼びやすいようにすれば良い」
「そのあなたってのも変えて欲しいなぁ。サヤでいいよ。様なんて付けなくていい、そのままサヤって呼んで」
「わかった……サヤ」
「なあに、エリー?」
嬉しそうにサヤは笑うと、すっと立ち上がって裾に当たる部分をぴらりと持ち上げた。
「その
「おひめさま? なあにそれ」
そうか、山から出たことがないのだから知らないのか。
「世界で一番偉い人が王様、その娘がお姫様。サヤの仕草が、私の昔見たお姫様にそっくりだった」
「へぇそうなんだ。なんとなく、やってみただけなんだけどね。お姫様ってどんな人?」
「綺麗な服を着て、たくさんの飾りをつけた、華やかな人だった。遠くからしか見えなかったけど、いるだけで周りがキラキラしてる感じがした」
「キラキラしてるの?」
「綺麗な花や石がいっぱいキラキラして、周りはとても楽しそうだった」
サヤの目は大きく見開かれた。
「エリーはなりたいの、お姫様」
「えっ」
「だって楽しそうだもん、エリーの顔。初めて会った時からキリっとしてて、お喋りが苦手なのかなぁって思ってたけど、今のエリーはお姫様が大好きなんだなぁって感じがしてるよ」
湯船で温まった頬がさらに赤みを増しながら自分の前に迫ってくる。
「……まぁ、お姫様は好きだよ、みんな」
「そうなの?」
「お姫様は世界の中心にいらっしゃるお方だ。人類はお姫様を守るために機械達と戦ってる」
「エリーみたいに?」
サヤはエリサの肩に触れた。エリサの身体にはいくつもの傷跡が刻まれていた。
「見られていたか」
「エリーって実はお姫様を守るために戦う人なんでしょ。だから早く村を出たがってる」
「ま、そんなところかな」
「エリーみたいな綺麗な人でも戦わないといけないんだね」
「生きるためよ」
「生きるため?」
「世界は残酷だ。明日生きてるかなんてわからない。この世界で生き残る術はただ一つ、戦い続ける事。だから命の価値に身分や年齢は関係ない」
「だからあの時、私にそう尋ねたのね」
エリサは頷いた。エリサは今よりもずっと前から戦場で生き抜いてきた。過去の体験から自分を作り上げている要素に一切の揺らぎはない。
――命の現実を私は誰よりも知っている。そう。命が持つ価値も重みも、すべて。
「……そんな怖い顔しないで、エリー。私はあなたとずっと話したかったんだよ」
サヤがエリサの肩に抱き着いた。少女の小さな身体のやわらかさと湯で温まった体温が肌に直接伝わってくる。殺伐としているエリサの胸中に幼い少女の優しさが響いた。
「私ね……友達が欲しかったんだ。カズマは空読の時はかまってくれるけど、いつも忙しそう。モトリはそばにいて話し相手になってくれるけど、いつもそれじゃ代わり映えしない。村の人とはお告げ以外で話しちゃいけないことになってるし、ずっと退屈だったの」
「巫女様も苦労が多いのね」
「だけどエリー達が来てくれて、私すっごく嬉しかった。知らない事をエリーとゲイツさんがたくさん教えてくれた。本当に、ありがとね、エリー」
サヤはエリサの手を取ってにこっと笑った。サヤの顔を見ると少し気持ちが明るくなった。
「そっかぁ、お姫様かぁ。エリーが守りたくなるような人がこの世界にはいるんだね。……一度でいいから会ってみたかったなぁ」
ドクン。
胸が
サヤは二日後に死ぬ。知っていたはずなのに、外の世界を教えてしまった。
「ねぇ、サヤ……」
この子はきっと死の間際で世界に未練を感じる。無垢に笑うこの顔が磔にされ、焼き殺される様を人々は喜びながら祝うのだ。想像できない。
想像ができなかった。
「……本当に死ぬの?」
震えそうな声で口にしてしまった。それまで輝いてた眼がすっと穏やかな色を帯びてエリサの目を見つめたまま、にっこりとサヤは言った。
「死にます」
美しい言葉。不気味さのあまりエリサは総身が
全身が急速に熱くなる。取り返しのつかない失敗を犯したような胸の痛みが刹那的に迸る。数秒前にいた少女がこの瞬間に死んだと察した。目の前のサヤがまるで別の生き物に変貌した。
朋然ノ巫女。生贄のため育てられた少女になって。
「みんなと会えなくなっちゃうのは寂しいけど、アオキ村の皆がこれからも幸せに生きていけるように私がんばるよ!」
「どうしてそこまで人の幸せを願えるの。サヤは」
「皆が私を幸せにしてくれたから。私は私にできることで皆を幸せにするんだ」
「…………」
エリサはサヤの身体を抱きしめた。どんな事を言おうがサヤの声には一切濁りがない。自分の死が、村人の命を確実に守る。心からそう信じ切っている。
「エリー、突然どうしたの」
「……がんばって、どうか」
「えへへ、絶対に成功させるんだから。最後にエリーとお話できてよかった!」
「うん」
胸にうずめた温もる身体が命の在処を伝えている。
翌日サヤの声を聴くことはなかった。