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アオキ村の少女・サヤ(二)

 通された一室は空間が飽和したような印象のするがらんどうな広間だった。乾燥した木の甘いにおいが伏せるように板目の上を漂っている。


 格子こうしまどから差し込む陽光ばかりが光源のため部屋の中は薄暗く、昼ながら燭台が点いている。


 森に埋まっていた集落は寂れた空気に満ちていた。やはり豊かな様子はない。民家はどれを見ても茅葺かやぶきわらいて屋根に寝せている実に質素な造り。壁は木枠に土を塗り固めたものだろうか。入り口には扉もついてなかった。


 案内された、この屋敷を除いては。


「ここはどういう施設?」


「私の家です。大きいでしょう」


「ええ。立派ね、とっても」


 エリサは端座たんざしたまま首肯しゅこうする。正面の上座にわる少女、サヤに視線をやりながら。広間には自分の隣にゲイツ、サヤの傍には先程の少年が控え、左右の壁には珍しい物を見るような顔をした村人達が居並いならんでいる。


 妙な気分だ。そう思いながら視線を落とす。大きなぜんがあった。日干し野菜の塩漬けや豆の練り焼き、赤いスープに黄色のディップと、並ぶのは実に多様な菜物料理。


 サヤは、まず空腹を癒せと言った。


 招き入れられた時点で食事の支度は整っていた。長旅で携帯食をかじってきた身にとって彩りある食事は十分な馳走ちそうである。周囲の視線が気になるものの口の中は湿る。自然、隣の青年も同じ境遇であるが彼は表現豊かに舌なめずりさえしている。


「めちゃくちゃ美味そうじゃないすかぁ! 良いんですか、こんないただいちゃって?」


 普段はとぼけたような顔のくせに、こういう時は輝くような眼を見せるのがゲイツらしい。黒真珠のような両目の色素がぐっと光をため込むのだ。


 サヤが頷くとそれ来たとゲイツは手を合わせ料理に食いついた。エリサの心境など我関せぬといった具合に。自身も正面のサヤと村民に一礼をし、膳の上から食べ物を口に運ぶ。


 スライスした赤い実をくずで煮込み冷やしたもの。葛のやわらかい舌触りにほぐれるような果肉の食感。味付けは薄いが喉を過ぎてから胸の内で微涼びりょうを生じ、奥から熱を冷ます。


「美味しい」


 もう一口唇に滑り込ませたその時、胸騒が走った。


「…………」


 部屋の空気が変わった。気配を探る。硝子にかけた水の速さで静かな堂内に別の雰囲気が挿しこんだ。全方向から矢を射るような鋭い視線。エリサは察する。


(これはまずい、さては)


 食事のふりをしながら辺りを探るが気配の焦点は自分の手元にある。手遅れを悟った。


(毒を盛られていたか)


 薄暗い部屋は企みを行うのに格好の場。隣のゲイツの表情は平静へいせいな物ではない。安穏さにかまけ油断した。この気配、状況……間違いない。ここはぞく根城ねじろだ。旅人を誘い込んでは食虫花しょくちゅうかのように骨の髄まで喰らう輩に違いない。


「うっ」


 ゲイツが唸り声をあげた。


(やはりこれは、毒!)


「うぅ……」


 ゲイツがうつむいたのを合図に列座れつざしていた影が一斉に立ち上がった。


 来る。


 咄嗟とっさに腰に手をやるが剣が無い。やむを得ぬ、徒手としゅ空拳くうけんか。


 ぬう、と伸びあがった無数の影法師に対しエリサは座位で身構えた――。


「美味ぁい!」


「「「ヤッタァァーーアアア!」」」――彼らが両手を上げて喜ぶまでは。


「え」


「いや、本当に美味いっすよこれ。俺、感動しちった」


 そう語るゲイツの表情は平静な物ではなかった。


 村の食べ物がよそ者に気に入られるか不安だったと彼らははにかみながら言った。信じがたい言葉だが彼らの笑みを嘘と言い切るのも又しがたい。一見、質素な膳上ぜんじょう。だが料理は美味だった。食材は突出せず互いに譲り合い味が奥深い。味覚の豊かさは人々の豊かさを物語っている。


 食は文化の粋を知る術。旅の中でその程度の見識けんしきは培った。アオキ村は表面こそ貧し気だが貧困に落ちている訳ではなさそうだ。空腹の癒えた自分達を見ている彼らは満足そうな顔をしている。


 だが思う。彼らは殺気じみた嫌悪の目でエリサ達を拒んだ。今となってこの変わり様は不審ではないか。


「アオキ村はここに長いんですか」


 ゲイツが言った。


「八年になります」


「ほお、案外新しい」


「けれど、土地には二十年」


「どういう事です?」


「村の人々は大半が流浪民ジプスです」


「ジプス」


 納得したように赤髪の頭が揺れる。ジプスとは、部族単位で世界各地を流れ暮らす漂泊民族。生活形態としては一定の土地に居付くことがない。


「だけどその言い方だと、単位は一つじゃない」


「複数の部族で成っています」


 言われてみれば居流れる村人の顔や骨格の造りは根本的なところで微妙に違っている。なるほどあらゆる種族が混ざって結成した集団なのは得心がいく。新参者を手厚く保護するのはそういった成り立ちがあるからか。


 しかしエリサ達を攻撃し追い払おうとした事に説明がつかない。そもそも流浪民とは一個の血族から成るのが普通であり、しかも特性上、自決意識が強く複数が集合することはありえないのだ。


 ただ、超常事態クライシスさえ起きなければの話だが。


「隠れているんですね、奴らから」


 ゲイツの問いをサヤが首肯する。アオキ村の人々は何を遠ざけようとして部族の垣根を超え、集まり、深山の奥で隠れていたのか。人々を恐れさせる存在……その名をエリサは知っている。


「無機生命体、機械兵アトルギア


 堂内から短い悲鳴が幾つも上がった。それは命を持たない殺戮者。人類が自らの手で生み出した滅びの兵器。世界の歯車を狂わせたのは紛れもなく奴らの存在だった。


 人類の絶滅を目指す機械の悪魔から逃れるべく人々の多くは息を潜めて暮らしている。


 アオキ村のような排他的はいたてき隠遁者いんとんしゃもその一例に過ぎない。敢えて外の世界から自分達を閉ざしているのだ、見知らぬ者を警戒するのは当然の心理。それほどまで人々は機械に……いや、自分以外の存在に不信感を抱いていた。自分を守れるのは自分しかいないのだから。


「この地に移り住み二十年間。平和でした」


 エリサはサヤの言葉に含みがあることに気づいた。


 そこに「これまでは」と言葉が継ぎ足されると、サヤの瞳に薄暗い物が落ちた。


「ひと月前、村の近くで一体のアトルギアが残骸として見つかりました」


「残骸で?」


「雷に打たれて真っ黒焦げになって倒れとった」


 ある村人が答えた。周囲もそれを肯定する。しかしとサヤが言った途端堂内は静まった。


「アトルギアはすぐそばまで進出しているのです。この土地も、そう長くはありま

せん」


「また新たな居住地を探すんですか? 二十年前みたいに」


「はい」


 淡々と応える姿にはほのかな微笑が浮かべてあるがどうにも奥底に暗い物を感じる。傍聴する村人は青ざめて機械の恐怖を思い出しているようだ。嗚咽を漏らす者もいる。だがサヤの目はそれとは違う後ろ暗さを思わせた。


「大丈夫だ、ワシたちにゃサヤ様だけでなく、サラ様もおる」


 ある年嵩としかさの男が膝を立てた。それに呼応し他の村人も顔を上げる。


「そうじゃ、サラ様だ。サラ様もおれば恐れる事はない」


 新たに出た名前、サラ。


 サヤ様、サラ様。


 菌糸の塊が一滴の水で膨張するように二人の名を囁く声がみるみる広がった。崇拝の声が集まる中央でサヤは広間をゆるりと見渡した。


「安心してください、朋然ノ巫女である私とサラ姉様が必ず〈叡智〉を持って皆さんを救います」


「ありがたいお言葉じゃ」


 年嵩の男は涙ぐんでサヤに両手を合わせた。他の村人も同様にひれ伏した。


「あのぅ、ホーゼンノミコ? って初めて聞くんですが、何なのですかね?」


 あっけらかんと響いた声に室内の村人達が音を立てて振り返る。しかしゲイツの飄々《ひょうひょう》たる態度は揺らがない。


「いやあのですね、皆さんが拝んでらっしゃる、サヤちゃんは」


「サヤ様と呼べ、無礼者!」


「はいぃ、失礼しましたぁ!」


 サヤのそばの少年が怒声を発した。ゲイツは派手にのけぞり土下座する。動きがうるさい。内心で諫言を飛ばしていると、くすくすと声が聞こえた。上座のサヤが笑っている。


「許してやりなさいカズマ。それで、私がどうしたのですか?」


 険しい目つきの少年をおさえ、サヤは話をうながした。


「そう、サヤ様はこの村で何をなさってるんですか? さっきソラヨミがどうとか……」


 ゲイツの問いにサヤは丁寧な回答をくれた。空読とは限られた者にのみ許された気象観測術らしい。アオキ村で空読を行えるのはサヤともう一人、サラという人だけだそうだ。


「農耕が主である村人にとって天候は生命線。だからあなたは村の最高司祭者であると」


「そういう事になります」


「朋然ノ巫女様のお告げに従えば、間違いねえ」


「あぁ、そうだとも」


 そう言って村人はまたも平伏した。


「そうだ」


 ゲイツは面白い物を見つけたような顔で言った。


「今日の天気は、どうなるんですかね?」


「あっ……」


「え?」


 サヤは口を開けて固まった。ゲイツは頭上にクエスチョンマークを浮かべている。


「あー、皆の衆、これより空読のお告げをいたす」


 少年が村人の前に進み出た。


「サヤ様いわく、本日の空は日中晴天、風よく通ること薫風なり。日、やや傾きたる頃より雲立ち込めて……寒雨きたる」


「えっ」


 その言葉に広間の村人全員が反応した。


「……変な物食えばすなわち食当たりをもよおす故、よく気をつけておくべし」


 少年が言いきるとほぼ同時に遠雷が鳴った。格子窓の外から冷湿な風……雨の匂いだ。外で細かいものが地面を叩く音がしはじめた。


「雨だぁあ!?」


 村人は飛び上がった。


「水路の蓋を閉めないかん!」


「洗濯物干しっぱなしじゃ!」


「チビ達が帰ってくるわ!」


 様々な事情が飛び交う。まさに怒涛どとう。それぞれサヤに辞儀じぎを述べるとあっという間に去っていった。エリサ達は何か挙動を起こす暇もなく嵐のごとき一連を呆然と見届けた。


「……随分と、元気な人達ですね、皆さん」


 ゲイツが言った。


「こんな日もたまにはあります、ねえカズマ」


「いやねえよ」


「だってカズマが言うの遅いから……」


「俺のせいにすんな」


「そんな事より、お二人はどこから来たのですか?」


 サヤはこちらへ振り向いた。カズマと呼ばれる少年がバツの悪そうな顔をしているがエリサの隣でエヘンと咳払いする声がした。


「メルセオ=ボトムって地域です。海を渡ってここガナノ=ボトムを南下してきました」


「という事は山の外を知ってるのですか」


「オフコース」


「教えてください!」


 最高司祭者は身を乗り出した。


「しかしサヤ様」


「旅人さん、教えてください。この世界には、何があるのですか?」


 大言壮語たいげんそうごをさせればゲイツの右に出るものはいない。これまでの冒険譚を、彼はさもお伽話のように語った。砂の海、火を噴く山、巨大な宗教建築……。


 無論エリサも共に体験してきた話であるからゲイツが嘘を喋っていないのは確かだと分かる。ゲイツの語りをエリサは黙って聞いていた。しかしその注意は物語に目を爛々《らんらん》と輝かせる少女・サヤに向けられていた。


 ――興味を惹かれる。


 己より年若き身でありながら文化集合体の長を務め、さらに自然しぜん霊験れいげんと通じる力を持つという奇特な幼子。怪異的な存在であるのは初めて見た時から感じていた。その気配が……今ばかりは感じられない。彼女に年相応な瑞々しさを感じる。瞳に不穏なかげりは差していない。


(気のせいだったか?)


 あまりにも純粋で無垢な顔をしている。仮に思い過ごしだったとしたら自分はなぜ、あのような感覚を覚えたのだろうか。


 周囲が敬虔けいけんな姿勢を示していたから? それは彼女の力が事実である裏付けでもある。多くの人心を一手に掴むのは容易ではない。


 この村で最も尊い命。はたしてサヤが自称した語感の響きに囚われているだけだろうか。


「……とまあ俺達の旅はまだまだ続くって感じで以上、第一部完でございます」


 最後にゲイツは頭を垂れて話を締めた。サヤは両手を打って喜ぶ。


「すごい、本当にいろんな場所を巡ってるのですね!」


「風の向くまま気の向くままってね。好きな時に好きな場所へ行く、それがモットーでさ」


「好きな時に、好きな場所へ……ゲイツさん、エリサさん」


 赤みのさした頬でサヤに名を呼ばれた。格子窓の外は雨がしとしと音を滲ませている。


「雨は降り続くことでしょう。しばらくアオキ村に留まっていかれませんか」


「いやしかし今は移住の準備で忙しいでしょう」


「楽しませてもらったせめてものお礼です」


「こちらは食事を出してもらった、礼には及ばない。こちらこそ感謝している」


 そう言って手をつき頭を下げた。ゲイツも続く。村人の見様見真似だが敬意を表す仕草なのは察している。数秒の後に顔を上げるとサヤは再び子どもらしからぬ微笑で待っていた。


「三日後に村で祭りをするのです。どうぞそれまで見て行かれてください」


 柔和な物腰だ。本心による善意から生じるものであろう。たしかにアオキ村は滞在するに悪い場所ではなさそうだ。しかしエリサ達にはこの旅路で目指すべき場所があった。


「うーむ、どうしようかエリサ」


 腕を組むゲイツだがおそらく返すべき答えは自分と同じだ、悩んでなどいないだろう。エリサはサヤの方を見る。


「ご厚意に感謝する。けれど雨脚の頃合いを見計らって」


「山が離しませんよ」


 遮るように遠雷が鳴る。


「今日の雨は北西の風から来る暦移りの走り雨。雨水を食はむ山はお二人を簡単に通さないでしょう」


 一瞬雷光でサヤに影がまとった。


「なんだって! じゃあ俺達は、雨に降られる前にアオキ村まで辿り着けて幸運だったんだ」


 サヤは微笑む。言いかけた言葉をゲイツは途中ですり替えたとエリサには分かった。


「山の雨は一晩降れば明日には上がります。明朝山肌を見てお考えになるのが良策かと」


「……今夜の山越えは危険ですか」


「旅に命を懸けてなければ」


 ゲイツは押し黙った。


「雨は恵み。天に人は抗えません。急いた旅でも雨がやむまでゆるりと逗留とうりゅうしてゆかれてください」


 天に人は抗えない。司祭者だけあろうか子どもの割に達観した事を言う。しかし現実これは山に暮らす民の言葉だ。無碍むげにせぬ方が良い。ゲイツに意思を示すと彼は自分と共に頭を垂れた。今宵は屋根の下で寝よう。


 寝床には屋敷の離れにあるいおりを与えられた。夕餉ゆうげの席でもう一度物語りをするよう頼まれるとゲイツが独りで快諾し、満足げな表情のサヤを奥の間に見送った。


「運が悪かったな」


 サヤに続く少年が去り際に振り返った。名はカズマと言ったか、声には邪険な色がある。カズマは自分らに睥睨をやると長い上衣の裾をなびかせ、踵を返し吐き捨てた。


「余所者め」


「だから君は話を最短距離でぶち抜きすぎなんだよ、エリサ」


「意思の伝達は簡潔にすべきだとゲイツが言っていたじゃないか。回りくどいから村人に怪しまれて殺されそうになった」


「いやまあ、そうなんですけどね? 君に愛想つう物もんがあったら多少は変わったよ多分?」


「泣いて助けを求めた男がよく言う」


 庵の突上げ窓から見える雨にこぼす溜め息。昼に振り出した雨脚は車軸を落とすがごとく勢いづいてきた。旅装りょそうは解いている。この状況では村を見て回るのは億劫というものだ。


 夕餉まで時はある。手慰みにゲイツと雑な談話を片手間に広げた装備を手入れしていた。昼も馳走をたっぷりと食べたし動かなければ夜を頂くのは厳しいかもしれない。


 部屋は草を編んだ板状の敷物が床に延べられている。さほど広さはないが旅人二人が荷物を広げてもくつろげるだけの空間は残った。


 隅で鉄工具の整備を終えたゲイツは額から保護眼鏡ゴーグルを取って磨きだす。


「幽閉だなんて言っちゃ駄目だぞ」


 自分の事ではないか。エリサは言った。


「穏便に済ませたいならむやみに現地人を刺激しない」


「山が離しません。天に人は抗えません、ねえ」


 ゲイツは唇を尖らせる。


「私はあの司祭者……サヤが私達をここに留めたがった理由が気になっている」


「俺の話が面白過ぎたから」


「自分以外の存在を心に宿しているみたい」


「無視かよ」


 窓から降る雨を見ながら考える。胸中に想起されるのは、やはりあの目。


「……スピリチュアルパワーがうおー、みたいな感じだしな。どうも怪しんじまうのは当然だ。けどまぁ食事と寝床をくれたんだ、仮の宿には悪くはない。エリサは何が不服なんだい?」


 問われても容易に答えられない。あの少女に対して拭い難い不安を覚えたのは直感的に得た感想に過ぎない。ぼんやりと黒いしみが漂っている気がしていたのだ。まるで純真な白さに暗雲がにじんでいるようで。


 ――想像の外から、こちらを見つめているようで。


「雨が上がったら早くこの村を出よう」


「そらそうさな。山の向こうで俺達の恋人が待ってんだから」


 雷が近くで鳴った。雨雲は分厚く空に垂れこめアオキ村の木々を鈍色にびいろに染めあげている。


 雨の閉じ込めた陽光が衰えを見せた頃、一人の老婆が庵を訪ねてきた。


「アオキの空気は気に入りましたかえ、異郷の方々」


 白の貫頭衣かんとういに羽織をかぶせただけの肢体したいは枯れ枝に白い布が巻き付いているようだと思った。節回ふしまわしの訛りがきつく視線は観察されてるようで気持ちの良いものではない。


 老婆はモトリと名乗った。サヤの侍従じじゅうらしい。


「ご用命とあればなんなりと」


「じゃ、じゃあ……」


 旅塵りょじんを落としたいと伝えた。老婆は頷くと目がぎょろりと動きエリサ達の背後に広げられている旅の装備を一瞥……いや、しばらく見つめて「支度いたします」と退出した。


「何なんだあの婆さん、気味が悪ぃ」


「ゲイツ口が悪い。年長者は」


「敬いなさいだろ? はいはい、わーってますよエリサちゃーん」


 ゲイツは天を仰ぐ仕草をした。そしてそのまま仰向けに寝転ぶ。


「……風呂に入れるとか、夢じゃないよな?」


「現実ね」


「素晴らしいなアオキ村」


 久方ぶりの湯浴ゆあみは旅の疲れをひと息にほぐし、サヤとの夕餉もつつがなく済んだ。その場にカズマは不在で代わりにモトリがはべっていた。色白なサヤと比べて肌が浅黒いモトリは元々この山に暮らす土着民族だったらしい。


 ゲイツの冒険譚をサヤは手を叩いて喜んだ。すっかり気分を良くした彼は庵に帰ってなお頬が紅いままで、寝床に横たわるとあっさり寝てしまった。月はまだ頂点に達してない。


 そう、雨がやんでいた。


 朋然ノ巫女の読みは正確だった。昼に降った雨は夜までには上がっていた。これならば明朝の出立も叶うかもしれない。


 エリサは手元に目を落とす。青く透き通った球体が朧月を映している。月の光を反射して、内部の模様まで鮮明に見れた。水底に漂う波動のようなものが青い玉一杯に広がる。


 美しい……されど手にある感触はとても冷たい。エリサは空を見上げた。


 どこを捉えるともなくぼんやりと求める土地への想いが募る。


「この命続く限り」


 そう呟いて音を立てることなく自分の寝床に就いた。





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