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赤い双眸

 眠りから覚めた。冷えた空気が睡気ねむけを引き下げる。庵の中には闇が溜まっていた。

 まだ夜か……。

 窓からは夜虫の声。ゲイツは壁にもたれ寝息を立てている。エリサは掛け布を外し表に出た。まともな寝床が与えた休養は体をいささか軽く感じさせる。雨雲は既に無い。満天の星彩せいさいが黒洞々《こくとうとう》に散りばむばかり。方々には篝火かがりび道標みちしるべ火粉ひのこのはじける音が響く。アオキ村は死んだように眠っていた。

(夜明けは、まだ先だな)

 しばらく歩き手ごろな切り株に腰を下ろした。風が木々を吹きさらい山をごうと唸らせた。夜霧の向こうに川が流れているらしい。そんな音さえ聞こえてしまうあたりこの土地がいかに文明に隔絶しているのかをエリサは再び実感した。

 エリサは懐から携行式電子記録端末〈プツロングラ〉を取り出し起動させた。

「目的地までの最短距離を教えて」

『カシコマリマシタ』

 案内音声に伴って手元の端末から放出された光は空中で――エリサの目の前で固定された。ホログラム・ヴィジョンである。プツロングラは虚空に表示した電影画面に現在地からあらかじめ設定していた地点までの道のりを計算し、地図として表示してくれる。

 ……はずなのだが……。

『現在地ノ情報ヲ取得デキマセンデシタ』

 やはり電波は届いていない……か。旅の必須装備として幅を利かす機器ですらこの有り様ならば自分の求める情報を村人が持っていようか。いや、その望みは薄い。とにかく明日にでも発とう。手遅れとなる前に。

 立ち上がって寝所に戻ろうとした時、総身がにわかに粟立った。

 エリサは闇を睨んだ。

 ――気配だ。

 周囲に何かいる。

 鬱蒼うっそうの森、建物の影、畑の畔溝あぜみぞ……ありとあらゆる闇の中でエリサは確かに耳にした。

 隠すつもりのない、殺気じみた息遣いを。間近な気配に振り返る。

 息遣い、それは感情の高揚に伴う代謝熱を解消するべく行う生理現象。

 ただ「それ」が興奮しているのかといえば、否である。

 硬質な部品がこすれ合う不愉快な金属音。原動機の排出する熱風。

 篝火に浮かび上がった影は機械がその身を構成し、エリサのよく知るところであった。

 手足が異常に伸びた人間の形をした存在。

 機械兵アトルギアだ。

 ――ついに嗅ぎ付けて来たか。

 突進してきた一体の攻撃をなんとかかわす。さらに数歩飛び退いて奴らの姿を視認する。

 ――数が多い……。

 無数の赤白い双眸そうぼうが闇から此方を見つめている。

 蒸気を吐く音。手先に生やした鉤爪をアトルギアが横薙ぎに振り払い、エリサを殺意の込もった一旋が襲う。斜めへ身をよじってやり過ごすが背後から現れたもう一体の察知に遅れた。忍び寄った敵から振り返りざまの一撃を浴びた。体が飛ぶ。転げる。地で肌を削り建物に激突する。額に生暖かいものが垂れた。

 ――分が悪い。

 武器を持たずこの数を相手にするのは無理だ。エリサは負傷した身を奮い駆けた。

「ゲイツ!」

 呼吸を荒げながら民家に向かって敵襲を叫ぶ。皆眠っている。このままでは全滅だ。しゃにむに庵へ走り続ける。受けたダメージに構ってなどいられない。

 歩いただけの道がどうしてこんなに遠いのか。走れど叫べど視界を過ぎる篝火の列は途切れない。後ろから機械の不気味な移動音が追いかけてくる。

 追撃してくるアトルギアの無慈悲な暴力を時に逃れ時に被り喘ぎながらエリサの足はようやく屋敷まで辿り着いた。だが味方の名を呼ぶ声は喉の出口で嗚咽に変わった。

 満身創痍で見上げた空には火柱が上がっていた。

 真っ赤に燃え盛るサヤの屋敷。ゆらゆらと機械の影が炎のなかに揺らめいている。

(あれは……)

 奴らの足元に何かが転がっている――「うっ」――気づくと即座に目を逸らした。

 見境などない。奴らにとって自分達はただの獲物。機械にとって人間は単なる有機物。ずっと前から知っていた。無機物には感情が無い。関係ないから殺すのだ。奪ったそれにいかなる意味いかなる使命があろうとも。

 あどけない顔が紅蓮に消えてゆく中で屋敷の外壁が爆発し一つの人影が飛び出してきた。木片が突き刺さり血塗れになっているがあの赤髪はゲイツだ。火だるまとなった体を転がって救おうとしている。

「いま助ける!」

 衣服を脱ぎそれでゲイツの身を叩く。かろうじて炎は消せたが火傷が酷い。もはや気息奄々だ。

「に……逃げ……ろ、エリサ……」

 此方を認めたゲイツはそう訴えるが声は既に潰れていた。視点が定まらぬのか目を泳がせながらゲイツは喀血した。おそらく内臓がやられている。

「喋ってはダメ、急いで手当する」

「機械……が、また……奪って、い……く……」

「喋らないで、早く立って、一緒に逃げるの」

 そう言って腕の下に肩を回すと妙な感触があった。敢えて目を向けなかった。手をゲイツの腰に回して支えなおす。物体の焼けた匂いが鼻腔を突く。力なく身をもたげるゲイツを手負いの自分一人で運ぶには想像を絶する苦痛が襲った。

 どうやら自分もまともに動けそうにないらしい。奴らの攻撃を受け過ぎた。

 片足が激しい痛みで重く感じるがそれでも仲間を見捨てて行くわけにはいかない。ゲイツの身体を支えながら懸命にその足を前に出す。

「……エリサ……俺を、置いて、ここ……離れ……ろ……」

 一歩歩くたび自分の足からゲイツの身体から嫌な音が聞こえる。火炎が延焼し燃え盛る村。もはや鋼色した悪魔共すら見えないほど視界はかく一面いちめんで染め尽くされた。

「大丈夫、あなたを見捨てたりはしない」

 だが頭一つの身長差があるゲイツを支えながらはたして逃げ延びられるか――せめてどこか身を隠す場所は? アトルギアに見つからずやり過ごせる安全な逃げ場は。

 ふと目の前を影が走りすぎた。半狂乱の怒声を発しながら炎に突っ込んでいく木剣を振りかざした男。あれはカズマだ。

「余所者め……余所者めぇっ」

 ――そっちは危険だ、行ってはいけない!

 咄嗟に出そうとした声が何故か出なかった。足もすくんで動かない。理性を喪失した人間が悪魔の口に飛び込むさまをエリサは黙って見過ごした。この世のものと思えぬ断末魔。

 望まぬ旋律が塞いだ耳朶を震わせる。

「エ……リサ……」

「ゲイツ!」

 我にかえった。今は守る命があるのだ。呼ばれた名前に大きく振り向く。

「たす……けて……」

 視線を送った先でゲイツの腹から鋼の爪が伸びていた。

「え……」

 肩を貸すゲイツの真横に奴らが立っていた。その腕が仲間の身体を貫いている。不意の出来事に、呆然と彼が赤いものを吐く姿を見つめてしまった。自分を呼ぶゲイツの声。ハッとしてエリサは彼の身体を放した。

 瞬時に構えなおし――「助けなくては」――その思考が手足を突き動かした。

 雄叫びをあげて敵に突っ込む。

 反撃を躱し、機体に殴打を撃つ。撃つ。撃つ。何度も撃つ。接触した自分の四肢から不快な音が鳴っても無我夢中で殴り続けた。

 そして――気がついたら空中に放り出されていた。衣服の裂け目から己の身を通っていた液体が弧を描き宙に軌跡をつけている。地面に落ちる衝撃。胸からドクドクと何かが溢れだす感覚。口内には苦い味。

 真っ白になった頭で考える。何が起きた? 視線だけ動かして周囲を見るとアトルギアに吊り下げられたゲイツが手足を力なく虚空に垂らしていた。此方を見ていて視線が合う。光のない目が何かを訴えかけている。視線を自分に戻すと理解した。

 そうか。自分もやられたのか。だがそれでも。歯に力を入れ肘を立てる。このカラダはまだ動かせる。あれだけ殴れば損傷の一つはしているはずだ。必ず一矢報いてやる。ゲイツを救わねば。その思いだけでエリサは砕けた拳を地について体を起こした。

 視軸を向けたアトルギアには傷一つついてなかった。五体ごたい傷痍しょういのエリサの顔を見下ろすばかりで嘲るように立つだけだ。無機質な二つの光に躊躇いは無い。

 エリサの顎はいつしか震えていた。ゲイツはもう動いていない。

 乾いた笑いが不意に漏れ出す。

 一滴の血すら流れていない奴らに、血塗れとなって抵抗する自分達。

 ……いったい何を間違えた。不公平な命の交渉が歴史にいくつ刻まれてきた?

 機械よ。お前達は何を求める。人類と機械は共に生きていく理想を掲げなかったか。我らはいつ道を違えた。お前達は何故生まれてしまった。呪いじみた問いかけが濁った意識に膜を張る。エリサの笑いは止まらない。

 高度知的無機生命体〈アトルギア〉。

 人類が創り出した滅びの兵器。血の通わない悪魔の殺戮者。命に価値を持たない者。

 人類はまた自らの子に敗れたのだ。

『お前のせいだ』

 黒ずんでゆく意識のなか、誰かに声をかけられた。誰の声かも分からない。しかし、死んだゲイツの顔が此方を向いた。少女を見つめる瞠目は世にも怖ろしい表情だった。

 エリサが目を背けると無数の亡者が顔を上げて待っていた。肌は土気色に廃れ、どれも目のあるべき箇所はぽっかりと空洞だった。肉付きの朽ちた頬と剝がれた唇でむき出しの歯がケタケタと音を鳴らしている。エリサは思わず「ひっ」と短く悲鳴を出した。ずりずりと闇から少女に近づく音。少女は膝を砕かせ、うの体となる。呻き声が近づいてくる。

『お前のせいだ』

 亡者の嘆きが少女の頭を狂わせる。エリサの喉から人とは思えぬ音色が鳴った。

『死んでしまえ』

『呪ってやる』

『地獄に落ちろ』

 少女は狂った。絶叫しながら爪を立て、亡者の顔を引き裂いた。もはや少女は気づいていない。次の亡者に飛び掛かる。断末魔が響き渡る。快楽どころか本能だった。叫ぶ少女を慰める者はどこにもいない。虚空を幾度も搔きむしり、いつしか亡者の姿はどこにもなかった。

 最後には、少女の笑顔だけが闇に残った。

 途切れかけた息をしながらエリサは倒れて空を見た。うつろな瞳に映っているのは、無限に続く茫漠の夜。これからもエリサを見守る星は変わらない。真ん中に一点だけ光っている、酷虐の星。冷たい微笑がいつだって少女の人生を照らしているのだ。

 虚空から、声が聞こえたのはその時だった。

 少女の名を呼ぶ声が聞こえた気がした。首がするりとそちらを向く。

『エリサ』

 柔らかな音を耳は拾った。不思議なことに身体はまだ動かせた。よたよたと声のする方へ進みだす。呼び声が聴こえる。

 ――光だ。

 向かう先から光が見えた。エリサがいる暗闇におぼろげな……それでも確かな陽射しが届いている。エリサは暗闇の中を這い、自分を呼ぶ声のところへ……光の中へと辿っていく。

 ――光が、欲しい。

 両手が自然と前に、前にと伸びている。

『エリサ』と呼ぶのは親しげな声。

 胸が段々あたたかくなり、膝を立てた。なんと足がまだ動かせた。

『エリサ』と呼ばれるたびに返事をしたくなってくる。歩幅が次第に大きくなる。

 ――私を呼ぶのは誰?

 いよいよ声に近づいた。温かな心地よさすら胸に抱き、エリサは光の中へ手を伸ばした。

『コノ悪魔メ』

 光は消え失せ、真っ黒な空洞二つが現れる。死色の肌は腐ったバターのようにずるりと剥げ落ち、黄ばんだ肉が露出した。白んでいたはずの世界がマーブル模様に黒ずみ始め、燃え盛る村の景色にたちまち変わった。

 目の前にはアトルギアが立ち並んでいた。

 少女をじっと見つめる赤い双眸が、あ、あああ。

『エリサ』

 あああああ。

『エリサ』

 あああああああああ。

『エリサ』

 ああああああああああああ。

『エリサ』

 少女に囁くその声は愛しい人を呼ぶかのよう。繰り返すだけ。あああ機械が呼んでいる。

 滅びの子供が楽しそうに少女の名前をささやきかける。

『エリサ』

 絶え間なく。

 呪詛のように。

 身に纏わりつく毒の泥濘。

 愉しい遊戯に浸っている。その身を犯す、永遠の縛り。 

 誰かが叫んだ。

「エリサ!」

 掛け布を跳ねのけ飛び起きた。

 全身が汗で濡れている。頬に貼りつく髪をかき上げて額に手をやる。

 機械はいない。どこにも亡者の顔はない……。

(……夢だったか)

 冷えた指先が熱を持つ額に心地よい。開け放たれた窓から朝の日差しがさしこんでいる。景色も、昨日と変わらない。

 一つ溜め息をつき枕元を見ると、隣でゲイツが倒れていた。

「何しているの」

「……君の頭突きだったらアトルギアもイチコロだね」

「……おはよう」

「……おはよう、エリサ」

 庵の戸口に、モトリが来ていた。寝ぼけまなこを擦りながら見た老女は目を合わせると昨夜と同じ舐めるような目つきで笑い挨拶をした。

「ぐっすり眠れましたかえ? お嬢さんは少々お疲れかしらねえ」

「ああ、彼女なら大丈夫ですよ。おかげで気持ちのいい朝です」

 そりゃえがったと沼地の生物のように引きつった笑い声をしながら続けて外を手で示した。

「朝の膳を調えてますから、屋敷までお越しなさぇ」

 きつい抑揚でおよそそんな事を言ったと思われるモトリはもう一度上目で此方を見て庵を離れた。

「うなされていたね。また夢を見たのか」

「……えぇ」

 水瓶から注いだ水をゲイツが差し出してくれた。受け取った水呑コップで乾いた口内を湿らす。浮ついた胸が喉を落ちてゆく水によって静まるような感じがした。保護眼鏡ゴーグルで赤髪を留めたいつもの顔がそこにある。

「ゲイツ」

「ん?」

 そっとその胸に手を当てる。

「……な、何してるんだい」

 温かい。心臓の鼓動。たしやかに、命の脈動が規律正しくゲイツの中で鳴っていた。

「生きてる」

 手のひらに感じるゲイツの命。間違いなく現実の彼は生きているのだ。その事実を確認するだけでエリサの心に言いようのない安心が満ち満ちてくる。すると……頭に何か添えられた。ゲイツの右手だった。

「まだ死ぬ予定はないから、安心しな」

 無言でうなずく。彼の微笑が心地よい。ポンポン。ゲイツは、軽いリズムで頭上を叩くと、

「行こうぜ、朝飯が待ってる」

 大あくびをこきながら言った。


 ゲイツと共に庵を出た。雲こそあるが空は晴れ間が見えている。山奥の朝は冷えると聞くが、なるほど陽で温まらぬうちは涼しさが地上に降りたままだ。その陽光は稜線りょうせんの向こうで柔らかく焼けている。山肌に霞が貼りつき透き通る空気の充満している様が、営みだす前の田園風景に幻想的な情緒を醸していた。

 そこらで摘み取った草の茎を噛みながらゲイツが尋ねてきた。

「やっぱりいつもより元気がないな、どうしたんだい」

 別段気にしているつもりはないが彼にはそう映ったらしい。夢の中の出来事を告げる。

「腹から、機械の腕が生えてた」

「エリサの?」

「ゲイツの」

「そこからだけは勘弁願いたいな」


 用意された朝餉は相変わらず菜食が膳を占めている。

 向かいに座るゲイツが目を見張った。

「ほおこれは」

 感嘆の声を漏らしめたのは、椀に盛られた白く艶のある蒸し穀物だ。

白色穀物マイラスとは珍しい、他ではめったに見ない物だ」

 穀物は生育の特性上高級品として扱われ一般に流通していない。王都城下のマーケットで珍品として並んでいたのをエリサは見たことがある。モトリが言う。

「ここではコメと呼んどりますえ」

 土地によって物の呼び名が変わるのはさして特殊な事例ではない。早速口に運ぶ。噛んでみると弾力というよりは奇妙な粘り気があり味はかすかに甘みを感じる程度。高級珍品の名の通り、確かに珍しい食感だった。

 給仕した老婆に対してなるだけ慇懃に礼を告げる。振る舞われた食事には感謝と賛辞を贈るのがコミュニケーションをつつがなくする秘訣だとゲイツから教わっている。当の本人はざるに盛った砂を革袋に流し込むような勢いで「コメ」を無心にかき込んでいた。

 格子越しに雲の裂け目は青々としている。朝の冷たく湿潤した風に混じり、温みを含んだ風も入ってくるがこれは山地特有の季節気流だ。雨は止んでいるしすぐにでも村を発てるだろう。食事を終えそう考えていた折、屋敷の戸口に村人の男が訪れた。屋敷の主たるサヤは現れずモトリが応対に出た。話が聞こえてきたので聞き耳を立てる。

「昨日の雨で水路のせきが切れそうだ、大川の水があふれかけてる」

 大川とはおそらくアオキ村を縦に割って流れている川の事だろう。澄んだ水の通う清流で、昨日屋敷への道中で見かけた。

「まだ持ちこたえてるが、今日か明日にでも降られたら決壊する。村のみんなで補修するから、サヤ様に許しをもらって欲しい」

「巫女様はただいま空読に出られておいでです。よろしくお取次ぎましょう」

「ん、急いでくれ」

 男の去った気配がした。モトリが部屋に戻ってくる。

「どうせ捨てる土地なのにねえ」

 老女はのそりと腰を下ろし、茶を淹れながら吐き捨てるように呟いた。


 山道を前にエリサ達は踏み出した足を躊躇の表情で引いた。足元のぬかるみが酷い。ブーツは足首を超える所まで沈みかけるし差し掛かりでこの様子だと斜面を超えるのは困難だろう。振り返ってみたモトリの顔にはどうにも哀れみかあざけりか判別しかねる表情が浮かんでいる。

「山には今日も入れませぬえ。ここの土は雨水をため込むから、途中で崩れたりするもんえ」

 晴天といえども歩いて行くのは土の上だ。多少の労苦に厭いといは無いが、地滑りの危険を冒す賭けで問われれば、眉間に力がこもってしまう。ゲイツも渋面でかぶりを振った。

――この村にもう一泊か。

 風が吹く。木々から無数の鳥が羽ばたいた。羽音が乱雑に降り注ぐ。鳥達の影は雲の充満する方へ進んでゆき、やがて黒い点となって消えた。


§§§


「今夜も雨、降っちゃうね」

 柵にもたれて櫓の下に声を投げた。空見櫓そらみやぐらを埋める森は湿気を含んだ生暖かい風でザワザワと音を騒がせている。もしかすると雨季に入ったのかもしれない。カズマはサヤから受けた空読の結果を端末に打ち込んでいる。いつも通り眉毛が険しい角度をしている。おずおずと梯子から降りる。今日も怒られるだろうか……。

「サヤ、よくできたな」

「えっ」

 自分の目を疑った。

 ……わ、笑った? カズマが、笑った? しかも……私を褒めた!?

「なんだよ、その辛い種子シドを食った機械兵アダルみたいな顔は」

「え、あっ、あぁ、いや、だってその」

 初めてだもんカズマにそんな事言われたの。といった旨を上手くまめらない口で言う。カズマはイガグリ頭のこめかみを指でポリポリ掻いて首をかしげる。

「そうだったか?」

「だ、だってカズマいつも怒ってるから」

 ――こーんな顔してっ。

 自分の眉間を指で押していつもの「逆八の字」を作って見せる。カズマはなおのこと笑った。

「すまなかった!」

「えぇっ!?」

 ありえない事が起こった。カズマが頭を下げたのだ。今までカズマがそんな腰の低さを示したことなんて一度も、全然、全く、寝ぼけてても、夢でも、見たことない。信じられないしいぶかしい。

 けれどもそれ以上に、清々しい。ようやく自分の短気がバカみたいだと気がついて村で一番偉い人が誰なのかを分かったんだね。

「なんか失礼なこと考えてやがんな?」

 全力で首を振った。

「だっカズマの感じがいつもと違うから、どうしたんだろって」

「あー」

 カズマは後ろ頭を掻いた。

「考えてたんだよ、昨日のお前を見てから。サヤ、外に行きたいのか?」

「……うん」

「そうか」

 自分の記憶があるのはこの村に来てからだ。集落の人々が営んできた外界の話がいかに鮮明だろうと所詮は他人の記憶に過ぎない。この空の向こうにある世界を自分の目で見たい。山の外からの来訪者が語った見聞を自分の肌で確かめたい。そんな思いが昨日の堂の語らいで強まった。

 カズマは黙ってしまった。

「カズマ?」

「…………」

「カズマ!」

「…………」

「カズマってば!」

「サヤ」

「うぉわっ。なぁに」

 鼻息がかかる距離まで迫ったところで反応されサヤの方が驚いた。カズマは口元をかすかに緩ませ手元にあった端末を差し出してきた。

「これの意味、分かるよな」

 サヤは画面を見て、呼吸が止まった。

 再び胸が動きだした時には、全身に、別の力が高まりだしたのを感じていた。

「朋然ノ巫女様、お役目の刻限は二日後でございます」

「……わかった」

 畏まるカズマに向けて笑いかける。

 ――間に合った。かねてから求めていたものが、手に、入った。

「安心して。ちゃんと最後までやり遂げるから」

「サヤ」

「それが私の生まれた理由でしょ」

 顔に熱がこもっていく。高鳴る胸の鼓動に乗って櫓の梯子をもう一度駆け上る。木々の頭越しには自分が愛する景色が広がっている。緑の山に抱かれた小さくも豊かな営みの郷。

 集落内では各々に与えられた役割をまっとうするのが当たり前。自分の役目を果たすことはそれだけで存在の証明になる。

 これが私の役目。すべては皆の平和のために。

「私はここで死ねるんだね」

 二日後の祭り。それは人々が村を旅立つ門出の祭り。我等を包んでくれた自然に対する感謝の祭り。感謝の証に差し出す供物は皆の宝でなくてはならない。人々にとって大切な存在。

 それが自分だ。

「自然とともに還らんことを」

 カズマが優しい顔をしてくれた。しかしどこか寂しげでいつもの首飾りを差し出している。そんなカズマを見てサヤは胸のあたりがキュッとした。それを表に出さない代わりに笑顔を返す。

「カズマ、一緒に帰ろう?」

 受け取ったサヤは、彼の手を引いた。

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