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第4話 さよならご主人様

 ナオキはぼーっと窓の外を見ているだけ。一方、アズサもカウンターに座ってあくびをしているだけ、という無為な時間が過ぎていった。壁にかけてある時計の針は百年前からずっと止まっていて、他に客は来ず、無音の店内は空席だらけである。

 ふと、おもむろにナオキが椅子から立ち上がって杖を取った。

「帰る」

「ご主人様、いってらっしゃいませにゃ~。でもその前にカネ」

 営業スマイルからカネの亡者スマイルに切り替えて、アズサは右手を差し出した。

「なんのカネだ?」

「席料と、あたしの可愛いスマイルと、飲食代に決まってるでしょうが」

「俺は何も飲み食いしてねえぞ!」

「季節のフルーツ食ったくせに、どの口が言うか」

「毒見させてカネまで取るのか、この店は!?」

「死んだら無料にするつもりだったわ! 生きてんだから払いなさいよ」

「この鬼畜メイドが!」

「なんとでも言いなさい。食い逃げしたら国際指名手配してやるから!」

 ナオキは軽蔑を込めて一睨みし、懐から財布を出して、一番黒ずんだコインをアズサの手のひらに載せた。

「足りない。あたしのスマイルは完全有料化しました」

 アズサは笑顔とは程遠い、むしろ小さい子供が泣き出しそうな顔でカネをせびる。

「あたしの可愛いすぎる殺人スマイル、ただで拝めると思うなよ」

「だったら常に笑顔で接客くらいしろ!」

「ギャップ萌え狙ってんのよ! っていうか、笑顔で接客されたかったらまずはあんたの態度を改めなさい。そもそもメイドへのリスペクトが足りてないヤツには、本来なら一秒も笑顔なんて見せてあげないんだから。で、あんたどうせカネ持ってんでしょ? 推しに貢ぎなさいよ」

 ナオキは舌打ちをして、仕舞いかけていた財布をもう一度出して、コインを追加した。

「はーい! チャリンチャリーン! ありがとうございましたにゃ~、またのご来店をお待ちしてますにゃ~」

 ナオキは笑顔で両手をフリフリしているアズサに見送られながら、メイド喫茶を後にした。

 砂煙の立ち込める、アスファルトに覆われた大地を、相変わらずノロノロと歩いていく。その向かう先では、十代前半くらいの少年少女たちが、3対3に別れてボールを蹴っていた。

 ナオキはコート――といっても白線はかすれて消えかかっている――の傍らに手ごろなコンクリの塊を見つけて、腰を下ろし、六人の少年少女を観察した。みんな悪くないセンスを持っていて、技術もあるな、とナオキは感心した。

 と、ナオキの足元にボールが転がってきた。ナオキは座ったまま足でそれを止める。ボロ布を幾重にもぐるぐる巻いて作ったボール。少年たちは強面(こわもて)のナオキに対して怖気づくことなく、気さくに手を振った。

「おじさん、サンキュー! こっち!」

 ナオキはボールを蹴り返すことなく、杖を小脇に抱えたまま立ち上がる。

「俺からボール奪ってみろ。6対1でいい」

「え、でも、おじさん、怪我してるんじゃ……?」

 子供たちはいきなり勝負を吹っ掛けられて困惑したというより、ナオキの身体のことを純粋に心配している様子だ。まっとうな脳ミソの持ち主なら、杖を突いている相手に六人がかりで襲い掛かるのは気が引けて当然。その理屈は理解できるが、ナオキとしては、子供にまでそんな気遣いをされることが心外だった。

「お前らが勝ったら、一人10個、まんじゅう買ってやる」

 ガキは食い物で吊れば簡単にその気になる。

 ――さあ、来いッ!

 ナオキは杖を持ったまま瞬時に臨戦態勢を取った。遊びの範疇を超えた、殺気にも似た尋常ではないオーラが彼を包み込み、空気がピリリとした熱を帯びた。

 だが、子供たちは一人もその場から動かず、みんな棒立ちしていた。

「……いや、来いよ! 今のはどう考えても欲にくらんだ目で跳びかかってくるところだろ!?」

「おじさん、帰り道が分からないの?」「お金ないの?」「ママが、嘘は吐いちゃダメってよく言ってるよ」「どうせ負けても奢らないんだろ?」

 子供たちが口々にナオキを心配したり、諭したりする。

「奢るよ! 漢(おとこ)に二言はねえ! カネも、お前らのとーちゃん、かーちゃんより、何百倍も持ってる!!」

「また嘘、吐いたぞ、おのおっさん」「心が穢れてるんだね」「ああいう大人にはなりたくないよな……」「かわいそう……」

 同情、軽蔑、非難のこもった冷たい十二の瞳が、ナオキを滅多刺しにした。

「てめえら、ぶっ殺すぞ!?」

「ほらまた汚い言葉、使った」「今時、『ぶっ殺す』とか、ないよなー」「仕事もないし、友だちもいないんだな……」

 ナオキは何も言い返せず、顔面を屈辱でひどく歪めて、生意気なガキどもを殴り倒したいのを堪えている。

「おじさん、とりあえずもうボール返してよ」

「ハッ! 嫌だね!」

 傍(はた)から見れば、あまりに大人げないが、本人はそんなことには気付いていない。

「いいか? 欲しいもんがあるなら、実力で手に入れろ!」

「欲しいっていうか、それ、もともと俺たちのだし」「どうする?」「おじさんが怪我しても困るしなー」「だるっ。めんどくさっ」

 ――まったく、最近のガキは……ッ!!

 ナオキの我慢は限界に達した。

「オラァ! 来ねえならこっちから行くぞおおッ!」

 ナオキはボールを子供たちに向かって蹴り出すと、杖を持ったまま片足ケンケンで突っ込んでいった。それを見て子供たちはようやく、この哀れなおじさんの相手をしてあげようという気になったらしく、一応それっぽい構えを取ったり、のろのろとボールに向かっていったりした。だが、その直後、子供たちはナオキが平凡なおじさんではないと気付かされ、はっきりと動揺した。

 というのも、ナオキは一人目の子供と相対すると、杖を器用に動かして、不規則で先の読めない動きをしたからだ。彼の足元にボールがなければ、単に脚の悪い男か酔っ払いがふらついているだけに見えたかもしれない。だがナオキは転がるボールを跨(また)いでフェイントを繰り出し、杖を使ったトリッキーな体重移動で狙いを絞らせず、たったのワンタッチで一人目の逆を突いてかわした。

「なんだ今のっ!?」

 全員の目の色が変わった。

 二人目、三人目が立ちはだかる。その無垢な瞳は困惑の色をたたえながらも、いつしか真剣にナオキとボールの動きを追う。

 ――本気になるのがおせえんだよッ!

まるで三本の脚を使ってフェイントをかけるような、予測不能な動きで二人目、三人目を簡単に抜き去る。残る三人が一斉に跳びかかってきた。

 だがナオキには子供たちの動きが手に取るように、スローモーションに見えていた。相手の伸ばした足のギリギリ届かないところへボールを動かし、逆を突き、たやすく突破――。

 そう見えたとき、たまたま一人の足がナオキの杖に当たってしまう。狙って引っかけたわけでないのは明らかであり、杖を蹴飛ばしてしまった少年自身も「あっ」と驚きの声をあげた。

 杖があらぬ方向へ跳ね上がり、ナオキの手から離れて飛んでいく。そして勢いの付いたナオキの身体はボールを追い越し、体勢を崩しながら前方へ傾いていく。

 子供たち全員が、熱くなりすぎて杖のおっさんを転ばせてしまったと確信した直後、ナオキはこれまた予想外の動きで予想をひっくり返した。完全に通り過ぎてしまった背後のボールを足の甲で地面に垂直に叩きつけると、ボールは弾性力によってポーンと空高く跳ね上がる。同時に杖を失った片手を地面に突き、勢いを使って逆立ちしたかと思うと、落ちきたボールをぴたりと足の裏に載せた。最後に腕の力で身体を跳ね上げ、バク転して着地しつつ、ボールを再び足元におさめた。まるで曲芸。全てがたったの数秒の出来事であった。

 ぽかんとして口を閉じるのを忘れている六人に「杖をくれ」と言うと、一人が急いで杖を拾って持ってきた。

「お、おじさん、すげえんだな……」「あんなの初めて見た……」「何者なんだ……」

「分かればよろしい。サッカーってのは自由なんだ。じゃあな」

 ナオキは杖を受け取る代わりにボールを返すと、ケンケンしてコートを離れた。子供たちから見えない廃墟の陰に辿り着くと、その場に倒れ込み、天を仰いで激しく咳き込む。なかなか咳は止まず、今度は地面の上で身を丸めて、しばらく苦痛にもがいていた。


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