翌朝、三輪の太陽が東の空からゆっくりと昇り始めた頃、宮本は焚き火のそばの寝袋から体を起こし、大きく伸びをした。
その寝袋は昨夜、琴音が貸してくれた予備のもの。
琴音は「テントで一緒に過ごそう」と提案してきたが、宮本は紳士的にそれを断った。
相手はまだ17歳の少女。互いに裏表のない関係ではあっても、踏み越えてはいけないラインがあると彼は理解していた。
「宮本おじさん、おはよう!」
琴音は明るい声でキャンプ用テントの扉を開け、朝の挨拶をしながら荷物の片付けを始めた。
「琴音ちゃん、今日は聖ゴリル山に登るつもりかい?」
宮本が問いかけると、琴音は荷物をまとめながら首を振った。
「ううん。今日はクリスタルスライムを10匹捕まえたら引き返すつもりだよ。 出発前に先生から忠告されてたの。 私のGamma1級の実力じゃ、聖ゴリル山の麓の区域より先には行っちゃダメだって。 その先はモンスターの密度も強さも倍増するから、今の私には無理だね」
「先生?」
「そう!私の先生はね、ものすごーく有名な人なんだ。 今の私がここまで来られるのも、先生のおかげなんだよ」
「ほう、どんな先生なんだ?」
「フライヤーでY社トップのダンジョン配信者、大島蒼悟先生だよ!」
「…………」
「えーー!!?」
宮本は思わず声を上げ、驚いた。
彼の反応から、大島先生の名を知っていることを察した琴音は嬉しそうに続けた。
「現実に戻ったら、おじさんに先生を紹介してあげるよ!」
「本当か!?それはありがたい!」
宮本の目が興奮で輝いた。
…が、すぐにその光は曇り始めた。
──俺はあと三か月も生きられない。この体を追い詰め、脳腫瘍にまで至らせた冷酷な現実に戻るつもりはない。
残りの命はダンジョンの壮麗な風景を目に焼き付け、最後は孤独に果てる。
憧れの人に会えることは、きっと叶わないだろう。
琴音は荷物を片付け終えると、軽快に跳ねながら宮本のそばへ寄ってきた。
「おじさん、正直、どのくらい強いの?」
「俺?」
宮本は自分を指差し、少し考えたあと、真剣な表情で答えた。
「たぶん、Alpha1級くらい?」
宮本が自分の実力をそう認識しているのは、基因誘導剤の活性化に耐えたという事実に基づいている。それをAlpha1級相当と考えていた。
しかし、彼はまだ知らない
――彼の遺伝子は、伝説すら超えようとする謎のモンスター「バルト」によってEpsilon級の驚異的なレベルにまで強化されていることを。
しかも、宮本の中に残された「バルト」の力はまだ完全には吸収されておらず、彼にはさらなる進化の余地が残されていた。
実際、探索者協会に登録されている100万人の中で、宮本と肩を並べられる戦力はほんの3人。
失踪した夜帝、現在の探索者協会総会長、そして戦闘部部長の火神だけだ。
まあ、それは宮本が基因解放者の1〜5級に必要な能力を体系的に学び、技術を習得した場合の話である。
「Alpha1級!?」
琴音は驚き、真剣な表情で宮本に注意した。
「ここはSSS級のダンジョンだよ!おじさん、それじゃ危険すぎるよ!一緒に帰った方がいいって!」
「心配するな」
宮本は穏やかに笑いながら続けた。
「俺はこれで楽しんでるんだ。君は君の計画を進めてくれ。俺にも俺の道がある」
琴音は、いかにも「弱そう」に見える宮本を心配そうに見つめたが、説得は難しいと悟り、小さくため息をついた。
「分かったよ、おじさん…でも無理しちゃだめだよ。…現実世界でまた会えるといいな!」
去り際に、琴音は予備の配信機材一式、予備の寝袋、キャンプ用品、そして彼女の個人連絡先を宮本に手渡した。
「配信しなくてもいいから、この機材で旅の記録を残してみてね!」
その実、琴音には少しばかりの思惑があった。
おじさんは弱そうに見えるから、万が一危険な目に遭ったとき、この機材で救助を呼べるかもしれない、と。
宮本は、手を振りながら去っていく琴音の明るい背中を見送り、やがて視線を雲に届く聖ゴリル山の頂へと向けた。
「憧れのお墓……今、行くぞ……」
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昨夜、Y社のダンジョン配信動画から切り抜かれた映像が、ネット上で瞬く間に拡散されていた。
公開からわずか6時間で全世界で203万回以上の再生数を記録し、その勢いは止まる気配を見せていない。
その映像には、燃え盛る焚き火を囲み、元気な少女と短パン姿の中年男性が地面に座り、肉を焼きながら話してる様子が映っていた。
彼らは人生や理想、過去の経験、そしてこの世界から受けた恩恵と奪われたものについて語り合っていた。
そこにあるのは、虚勢や作り物の強さではなく、飾らない本音。
心の底から溢れ出る、ありのままの言葉だった。
中でも「宮本次郎」と名乗るその男性は、自分の現実生活での苦境をそのまま語り、生活の重圧に押しつぶされて全てを捨てた末、ダンジョンに身を投じた理由を明かしていた。
「ただ、憧れの場所を自分の目で見たかったから」
その言葉には、作り物の感動とは違う、真実の重みが宿っていた。
映像には、血湧き肉躍るようなダンジョンでの戦闘も、恐ろしいモンスターとの対峙も、基因解放者が超人的な力を見せつける場面も一切ない。
それでも、この動画は多くの視聴者の心の奥深くに訴えかけるものであった。
澄み渡る氷河やそびえ立つ雪山を背景に、焚き火を囲んで語り合う二人。
飾り気のない宮本の言葉は、同年代の多くの視聴者に共感を呼び起こしていた。
家庭内で冷たく扱われる夫、会社で搾取される社員、悪友に騙され全財産を失った人々――その全てが、この映像に心を動かされていた。
──人は、勇気を出せば、プレッシャーのない自由な生き方ができる。
この切り抜きに寄せられたコメントは、Y社だけでも既に15万3000件を超えていた。
:おじさん、可哀想だけど潔い生き方でかっこいい。私には無理だけど、彼のように強くなりたい
:宮本さんと同年代ですごく境遇が似てる。勇気をもらったよ、ありがとう
:ダンジョンって戦闘や探索だけじゃないんだね
:宮本さんの配信アカウントはどこ?検索しても出てこないんだけど
:私も全てを捨てて、おじさんみたいにダンジョンに行きたい!
:ことちゃん、すごくやさしい聞き手だね
:自分の人生を素直に受け止めるって、どれだけの勇気がいるんだろう…私は今すぐとはできないけど、努力してみるよ。ありがとう、宮本さん!
:おじさんが配信を始めたら絶対見る!
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現実世界で
ある会社では――
普段は大人しく従順だった社員・田中が、全社員の前で社長に噛み付いた。
「この仕事を辞めるつもりか?この無能が!」と怒鳴る社長に対し、田中は静かに拳を振り上げた。
「このクソみたいな人生、俺も宮本みたいに勇気を出す!」
ある団地では――
妻が近所の住人の前で夫を罵倒していた。
長年耐え忍んできた佐藤は突然妻の顔を平手打ちし、毅然とした声で言った。
「毎日掛け持ちで働いて、お前の快適な生活を支えてきた俺が、なぜこんな扱いを受けなきゃならないんだ!こんな生活、もうゴメンだ!」
驚いた妻を見下ろしながら、佐藤は続けた。
「俺は宮本みたいに自分を取り戻す!」
あるバーでは――
虚勢ばかりの「友人たち」に囲まれた井上が、静かにウイスキーを開けると、その中身を一人の頭上にぶちまけた。
そして、ジッポーライターを揺らめく炎を友人に向けながら言った。
「小野、今日金を返さないなら、一緒に地獄に落ちよう」
1時間後、井上は母親の治療費として必要だった金を小野から取り戻していた。
井上は夜空を見上げながらつぶやいた。
「ありがとう、宮本。君の言葉がなければ、こんな勇気なんて出せないんだろうな」
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現実世界で次々と起こるこうした出来事の引き金は、間違いなく宮本の語りだった。
しかし、張本人である宮本はその影響を一切知らないまま、聖ゴリル山の中腹で静かにキャンプを続けていた……。