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最終話 これから

 季節は本格的に春を迎えていた。

 緩やかに吹く風は暖かく、ゼードの頬を撫でていく。彼は墓前にそっと花を添えた。花びらが微風に軽く揺れる。となりにはシエンの指輪がそっと置かれていた。墓といっても、遺体を埋めただけのものだ。スラム襲撃の際に火事で亡くなった子どもたちのそばに、ティルナの墓はあった。

 ゼードは顔をあげ、立ちあがった。そばでネアが例によって煙草を咥えながら、彼の肩を肘で軽く小突いた。


「それにしてもさあ、無事に帰ってきてくれてよかったよ。アンタが連行された時はさすがに肝を冷やしたからねえ」

「ほんとかよ、ネア先生。だったら助けにきてくれてもよかったんじゃねえの」

「バーカ。アタシまで捕まるだろ? アタシは自分の身が一番カワイイのさ」

「ふんぞり返って言うセリフか? それ。……あ、でも、あれは役に立ったぞ。痺れ薬」

「ああ、あれね。ま、色々と知っておくに越したことはないからね」


 ネアは軽く口笛を吹く。

 改めてゼードはティルナの眠る墓を見やる。墓の向こうは高台へ続いており、そこからスラム街を一望できた。穏やかな日差しに照らされながら、寂れた町並みが今もそこに広がっている。自分たちが暮らしてきた町だ。今までとなにも変わらない。ただ、ひとつだけ違うことがある。

 今のゼードには、はっきりと認識できる。人々を病に陥れた瘴気。その姿を。

 スラムの隙間を縫うように漂い、空へ舞いあがる黒煙のようなもの。それこそ、マナのなかった時には見えなかった瘴気の全容だった。

 禍々しい気配――それは今も人々の身体を蝕んでいるのだろう。アキウスたちが聖道院にかつては向けていた憎しみ、哀しみ。その感情の深さは瘴気を見れば一目瞭然だった。

 負のマナは、今もスラムと首都を包みこんでいるのだ。


 ☆☆☆


 それはスクリエルが去ったあとに交わされた会話だった。


『瘴気を、封じる? そんなことが可能なのか』


 ロアンヌの家にて――寝台で眠るシエンを見ていたゼードは、彼女の言葉に驚いて目を見張った。

 ロアンヌはそばでうなずき、胸に手を当てる。


『はい。封じるというより、取りこむという表現のほうが的確でしょうか。アキウスたちは体内に、怒りや憎しみを内包した不浄のマナを――瘴気を溜めこんでいました。それを全員で放出したことにより、首都に瘴気が蔓延したのです。今度は、それと逆のことをするのです』

『逆?』

『首都に赴き、私たちで瘴気を取りこむのです。不浄のマナを回収する、ということです。そのためにはたくさんの媒体が必要ですが。それは、私たち咒民が一丸となって行いましょう』


 ロアンヌは部屋の隅で腕を組むアキウスに視線を流す。


『いいですね? アキウス』

『……ああ』


 彼はどこか沈痛な面持ちであいづちを打った。彼はゼードに視線をやると気まずそうに目を伏せる。その顔には以前の憎々しげな表情は薄れていた。

 ゼードは思いきり顔をしかめてそんなアキウスを見やる。


『なにをしおらしくなってんの、気持ち悪いな。いつもの威勢のいい暴言はどうしたんだよ』

『なッ……貴様、俺を侮辱するか!』

『……アキウス』


 ロアンヌにたしなめられ、アキウスは渋々といった様子で口をつぐむ。その頬は憤りなのか紅潮している。それにゼードは苦笑し、それから気づかうように声をひそめた。


『だがよ、それは大丈夫なことなのか? お前たちになにか影響があるんじゃねえの』

『影響は……あるかもしれません。瘴気、ですからね。でもそれしか方法がありません。私たちが瘴気を完全に取りこむまで、聖道院のつくる薬で対処するしかないでしょう』

『よし。じゃ、俺も協力する』

『えっ?』

『協力すんの。俺も今となっちゃザ・咒民だしな! 任せとけよ。俺が全部吸いこむ勢いでやってやるからさ』


 ゼードのそんなおちゃらかな言い草に、ロアンヌは眉を垂らし、それから屈託なく笑った。


『まったく、あなたって人は……』


 ☆☆☆


「しっかしよぉ、シエン。お前、考え直したほうがいいんじゃねえの?」


 ゼードはネアの横にいるシエンを見やり、何度も投げかけた言葉を再び言い放った。


「お前は強いが、ただの人間なんだぞ」

「いいんだ。これが私にできる罪滅ぼしだから。憎しみに囚われてしまった私が、唯一できること……ティルナだって、私の贖罪を望んでいるだろう」

「……マジでそう思うのか?」


 ティルナがシエンの犠牲を望んでいるとは思えない。だが、今の彼になにを言っても聞かないだろうことはわかった。爽やかに見えるが強情な男なのだ。

 大気を漂う不浄のマナ――瘴気を取りこめば、身体にどんな影響がでるかわからない。かつてのゼードのように血を投与された苦しみを味わうかもしれないし、死ぬことだってあり得るかもしれない。それでもシエンは、自分から瘴気を封じる媒体のひとりになると名乗りでた。

 シエンはゼードの肩を軽く叩き、笑ってみせる。


「君には感謝しているよ。ありがとう。……ティルナの想いを、私に届けてくれて。継いでくれて」


 私をとめてくれてありがとう、と彼がつぶやく。その言葉に胸が締めつけられるように痛んだのは、きっと気のせいではない。その痛みを掻き消すようにゼードは舌打ちし、彼を睨む。


「シエン。そりゃ遺言じゃねえだろうな? だとしたら聞けねえぞ。俺たちはこれからも生きてく。生きて……成すべきことをする。課題は山積みだからな」


 瘴気が取り除かれたとしても、まだまだこの小国には問題があるのだ。医魔法のみを医療と定めるロイナ教。それに従う聖道院。迫害される闇医者と咒民。これからマナの扱いがどうなっていくのか。スクリエルが多少の改心をみせたとはいえ、制度が変わるには大いに時間がかかるだろう。その間、なにも問題が起きないとは限らない。

 まだ事態は動き始めたばかりだ。だから、ここで軽々しく死んでいる場合ではない。なによりティルナが哀しむ。


 ――俺たちは、彼女のぶんも生きていくのだ。


 シエンは小さな声で笑う。春の空を仰ぐ。ゼードもそれに倣い、空を見あげた。

 ふと、風が膨れあがって大きく吹いた。墓前に置いた花が揺れ、その花びらがひとつ、中空にひらりと踊る。

 花びらは音もなく空へと舞いあがると、そのまま溶けるようにどこかへと消えていった。

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