それは一週間前のことだった。
ロアンヌは驚きに目を見張ると、ゼードの言葉を繰り返した。
「黒魔法を教えてほしい、ですか?」
「あいつを……シエンをとめるためにも、使えるようになりたいんだ。俺は咒民になったんだろ。だったら、黒魔法だって使えるはずだ」
ロアンヌは表立って困惑している様子だった。その表情の通り彼女は首を振ると、ためらいがちに囁く。
「ですが、あなたはまだ血に順応していない身。身体中のマナが安定していないのです。黒魔法を使うのは無理があります」
「それでもだ。それに時間がねえ。最短で使えるように教えてくれねえか?」
「ゼードさま……」
体調が回復したわけではない。だが、このまま休んでいることはできない。俺は俺にできることをせねばならないのだ。
窓から差しこんだ日差しにゼードの手が照らされていた。手には以前なかった青黒い紋様が走り、自分の腹の奥にマナがうごめいているのが実感できた。ならば、黒魔法を使うことだってできるかもしれない。
ゼードは再びロアンヌを見据え、力強くうなずく。
「俺は正直、戦闘力ではシエンに劣るかもしれん。やつは腕利きの傭兵だからな。だが今、これはチャンスかもしれねえんだ。頼む。俺に黒魔法を教えてくれ。シエンをなんとかする。それはティルナの願いでもあるんだ」
「ティルナさまの……」
「シエンが暴走してんのはティルナの死が原因だ。やつの気持ちは痛いほど理解できるよ。なにかが違ってりゃ、俺だってシエンのようになってたかもしれん。それほど、俺たちにとってティルナは……なにものにも代えがたい存在だった」
大切な、存在だった。彼女は太陽だった。常に笑顔を絶やさず、明るく周囲を照らし続けていた。そんな彼女だから。
俺は、彼女を――
ゼードはロアンヌに向けて深く頭をさげる。
「だから、頼む。この通りだ。絶対に弱音は吐かねえ。途中で諦めたりもしねえ。俺は、ものにしてみせる」
「……わかりました。お教えしましょう。まずは、体内のマナをしっかりと感じるところからですね」
彼女は観念した様子で息を吐きだし、どこか切なげな表情のまま続ける。
「その前に……ゼードさま。私からもお願いがあります」
「ん? なんだ?」
「あなたの気持ちに、少しだけ、寄り添ってもよいでしょうか」
ロアンヌはゼードの返答を待たなかった。
寝台の上へ身を起こすゼードに、彼女は身を寄せた途端そっと抱きしめた。細い両腕が背中に回される。その腕に力がこもるのを感じる。
寝台が軋む音を立てた。彼女の艶やかな髪の匂いがふわりと鼻腔に届き、その身体の温もりにゼードは驚いて目を見開いた。ロアンヌはそのまま動かず、静かにゼードの耳もとで囁くように言葉を紡ぐ。
「少しだけ、こうしていてください。お辛かったでしょう。大切な人を失う気持ちは、私にだって。いえ……今、言葉なんて不要。なにも、言わないでください」
彼女の声はわずかに震えていた。
ゼードはロアンヌの華奢な背にゆっくりと手を回す。そうだ。今、胸にひそむこの感情を言葉にすれば、すべてが崩れ落ちてしまいそうになる。なにもかもが暗い深淵のような哀切に呑まれ、二度と立ちあがることができなくなりそうだ。だが、今だけ。赦されるのなら。
今だけは――
俺は、ずっと辛かった。いつだってシエンを見つめるティルナを、見ていることしかできなかった己が弱さも。叶えられなかった想いも。彼女を、今なお好きでいるこの気持ちも。
ずっと、辛かったのだ。