魔法結界が壊れたとの報が入ったのはそれから一週間後だった。
爆音が鳴り響き、地面が鳴動する。家から外にでたゼードとロアンヌが目にしたのは、村の入口に巻き起こる幾度もの爆発だった。
「なんだ!?」
揺れる地面に思わず吐き気を催す。ゼードはおぼつかない足に力をこめて立ちながら周囲を見回した。爆発に巻きこまれているのは聖道院の兵士たち。その悲鳴が遠くからこだまする。
霞む視界にとなりのロアンヌを見ると、彼女はうなずいて囁くように言った。
「仕込んでいた黒魔法です。結界を破った際に発動するよう、仕掛けました」
彼女は冷静に見えたが、白い額に汗が浮かびあがっているのがわかった。ほかの咒民たちは村の中ほど――井戸のある中央広場に集まっていた。
その先頭を仕切るのは青髪の男、アキウスだ。
爆発を免れた兵士たちが次々と村へ侵入してくる。その数は先日の倍以上だった。それに対して、咒民たちの数は三分の一ほど。兵士たちが手にした得物の切っ先が、昼間の陽光に照らされて反射している。近くで威嚇射撃が何度も鳴り響いた。それに呼応するように、アキウスを始めとした者たちはいっせいに前へ動きだす。
「怯むな! 村に入ってきたやつらに容赦は必要ないッ!」
彼は先陣を切って走りだす。するとほかの者たちも鬨の声をあげ、高らかに手をあげた。
「アキウス殿に続け!」
アキウスが手早く両手を突きだすと氷の刃が出現し、向かってくる兵士たちを襲う。悲鳴をあげて倒れていく兵士を蹴りあげて前へ飛びだしたのは、漆黒の髪を爆風に揺らす、シエンの姿だ。ゼードは脂汗が頬を伝っていくのを感じていた。ぐるぐると視界が回るめまいに顔がゆがむ。立っているのもやっとだ。拒絶反応はいまだに彼の身体を蝕み続けている。だが、立ちどまっているわけにはいかない。やつの……シエンのもとに行かなければ。
そばに立つロアンヌが、ゼードの前を守るように一歩を踏みだす。
「ゼードさま。さがっていてください。危険です」
「なに言ってんだ。俺は……俺がシエンをとめる!」
「ゼードさま……そのお身体ではさすがに無謀です。まだ血が順応していないのです。ここは私たちにお任せください」
「断る」
「ゼードさま!」
語気を強める彼女にロアンヌにゼードは首を振る。村の中心部では兵士たちとの争いが巻き起こっていた。あがる悲鳴に苦々しく歯を噛みしめる。
こんなことをしていてはお互い不幸になるだけだ。ゼードはロアンヌを無視して戦場へと歩きだす。足は相変わらずおぼつかなく、意識はかすかに混濁している。今の自分の立ち位置すら曖昧になる。それでも。
気づけば、地に膝をついていた。喉をせりあがるそれに咳きこみ、地面に小さな血だまりをつくった。それでもだ。俺はここで逃げるわけにはいかないのだ。
再びよろよろと立ちあがり、戦いの中心へと歩んでいく。シエンはどこだ。すでに血の臭いがあたりに充満している。武器を振るう鋭い音。発砲音。地面に人が倒れこむ鈍い音。黒魔法を発動する咒民たちの叫び声。
外部から刺激される五感に酩酊する。すると、目の前を人影が遮った。
「やはり……悪運だけは強いな。君は」
聞き馴染んだ声音だ。ゼードは目を凝らす。掠れる視界に映るのはシエンの姿だった。
細身の身体に大剣を構え、忌々しげにゼードを睨み据えている。
「それにしても、無様な姿になったものだ、ゼード。その紋様。傷の治りの早さ。咒民にでもなったようだな。彼らの血で生きながらえたのだろう。やはり、咒民は薬になる」
薬に――その言葉にゼードはシエンへ強い眼光を向けた。
「クソッタレが。やつらは薬なんかじゃねえ。それ以上、口を開くな」
「ふん、言ってくれる。今度こそ地獄へ送ってやろう!」
シエンの動きは速い。ゼードが反応するよりも早く彼は踏みこんでいる。切っ先がゼードを突く――その瞬間、後ろから一陣の風が吹いたのを感じた。次いで風は激しい突風となり、シエンの剣を鋭く弾く。
シエンは後方へさがって剣を構え直した。
いつの間にかゼードの横にはロアンヌが立ち、シエンと対峙していた。
「なりません。兵を引きなさい! 何度攻めても同じこと。私は和平の道を諦めたくありません。ですが、ここで暴挙を働くなら容赦しません!」
「ロアンヌか。かかってこい。化け物に私の刃が通じるか。今こそ試す時だ」
「ゼードさま、さがっていてください。私が彼をとめます」
「いや、こいつをとめるのは俺だ。それが……ティルナとの約束だ」
呼吸荒く言い放つゼードをロアンヌは睥睨する。
「いい加減にしてください! その身体ではろくに動くこともできません。私は彼に対抗できます。咒民のマナを舐めないでください!」
両手をかざすと、彼女のまわりを巡るように風が吹き荒れる。
「咒民の本性を現したか。まずはロアンヌ、君から斬り伏せる!」
シエンは地を蹴り、ロアンヌに向かって大剣を叩きつける。軽やかな身のこなしで後ろに引いた彼女が手を振り払った。今のゼードにはロアンヌの周囲に巡るマナが見える。マナは風となって具現化し、シエンに向かって台風のごとく襲いかかる。
その強風の余波にゼードは屈みこんだ。ロアンヌの放った風の攻撃はほかの兵士を巻きこんで狂い荒れる。悲鳴があがり、次々となぎ倒されていく兵士たち。シエンは剣を盾に後ろに引きさがっていた。風がやむと間髪を入れずロアンヌに肉薄する。その表情は鬼気迫るものがあった。
刃と風が交錯し、周囲を猛烈な衝撃が襲う。地面が揺れ、周辺の樹々が唸るように葉を踊らせる。ふたりの攻防を、まわりで戦っていた兵士と咒民の双方が、どこか圧倒された様子で眺めているのだった。
「ぐっ……!」
ゼードは舌打ちした。彼らを後ろで見ていることしかできないとは。情けない。あたりでは戦いが再開されている。みんな、戦っているのだ。自分だけがこんなところで休んでいるわけにはいかないのに。
立ちあがろうと力をこめた刹那、喉の奥からせりあがってきた鮮血に咳きこむ。深く、今にも呑まれてしまいそうな眩暈。強く意識を持っていないと、たちまち睡魔に引きこまれそうになる。ゼードは歯を食いしばり、近くに落ちていた木の枝を手に取った。
「うああッ!」
勢いよく左腕に突き刺した。
激しい痛みに意識が戻る。左腕から滴る鮮血が地面を濡らしていく。
「俺は……」
ティルナの声が脳裏に何度も繰り返される。
『あの人がもし、暴走することがあったら、とめてやってね。それができるのは……あなたしかいない』
シエンをとめること。それは彼女の最期の頼みだったのだ。シエンの心の弱さを知っていた彼女が、ゼードに託した願いに等しい。
彼女の願いを無下にはできない。だから、ここでとまるわけにはいかないのだ。
ゼードは顔をあげる。眼前には彼に剣を振りおろす兵士の姿が映った。
「ぐああッ」
その兵士の身体が吹き飛ぶ。ゼードの横ざまを掠って後ろの樹に激突した兵士は、そのままぐったりと動かなくなった。
「おい、そこでなにをしてる?」
冷たい声音にゼードは視線を跳ねあげる。彼の前にはいつの間にか青髪の男が立っていた。
アキウスは手を振り払うと、ゼードを見下すように見おろす。
「戦えない雑魚は引っこんでいろ。目障りだ」
「へっ……悪かったな。そういう、わけにはいかねえんだよ……」
ゼードは深く息を吐き、ゆっくりと立ちあがる。
「俺は、馬鹿みたいに暴走してるあいつを、なんとかしないといけねえんだ」
ロアンヌとの戦いを依然として続けるシエンの姿を見つめる。彼の視線の先を追うようにアキウスが首を動かし、肩をすくめた。
「……復讐の気だな」
「ぶっ飛ばして目を覚まさせてやる。俺は、ティルナに託されたんだからな……!」
ゼードは震える両手を突きだした。意識を集中させる。腹の底を巡る『それ』が腕を伝い、彼の両手に少しずつほとばしり、溜まっていく。
身体が熱を帯び始めた。全身にそれが循環するのを感じる。もう少しだ。もう少しで具現化する。あとわずか、腹の底からわきあがるそれをくみ取り、手先へと送りこむだけ――
「がッ、ぐ……!」
身体に走る激痛。ゼードの集中が途切れる。反動が凄まじい。身体を裂かれるような痛みが襲う。地面に膝をつき、肩で息をするゼードの額に浮かぶいくつもの脂汗。地面に落ち、土に染みをつくる。
弟を助けられなかったあの時もそうだった。どうしても内なるマナを外へ放出できなかったのだ。また同じ過ちを繰り返すのか。大事な時に、またなにもできないのか。
霞んでいく視界の先にはシエンとロアンヌの攻防。だが、彼女が放つ風はシエンの素早い剣戟に掻き消されつつあった。それに彼は魔防具の盾を身につけている。シエンの繰りだす剣技に、彼女が発動する黒魔法が追いついていない。
シエンの剣がロアンヌの肩を捉えていた。彼女が目を見開くのがゼードにもわかった。剣の軌跡が彼女を切り裂くさまがありありと脳裏をよぎる。
「ロアンヌ!」
ゼードは渾身の力をこめて立ちあがり、駆けだした。もはや無意識だった。外套の隠しポケットに手を突っこんでいた。それを、勢いよくシエンに向かって投げつける。
シエンの腕に当たる。それは――『小瓶』は小さく音を立てて割れ、中の液体が中空で溢れだす。シエンの衣服に浸潤していく。飛沫が彼の顔に飛び散った。
「な……これは……」
わずかに隙を見せたシエンに、ゼードは思いきり怒鳴りこんでいた。
「シエン! この大馬鹿クソ石頭野郎ッ! もうやめろ! こんなこと、ティルナは望んでねえ! 誰も望んでねえ! お前だってそうじゃねえのか!」
シエンは息をのむと、苦々しく顔をゆがめた。
「私は……私は彼らが赦せない。彼らに一矢報いることができるなら、私は死んでも構わない」
「……だったらその根性ごと、ここでぶっ倒す!」
その瞬間だった。身体の奥から力が急速に膨れあがっていく。有り余る力はゼードの両手に光の柱を具現化させていた。まるで大蛇のごとくうねる光が、シエンへ向かって飛来する。
シエンはその光に身を屈めた。光は彼の耳もとを掠め、近くにあった樹々に激突して轟音と衝撃をあげた。
シエンが目を見張る。その場の誰もが驚愕してゼードを見ていた。
樹々は深々と抉られ、黒煙をくゆらせている。
後ろでロアンヌが切れ切れに囁いた。
「……ゼード、さま。まさか……」
「――おお!?」
ゼードは思わず手の内を見た。自分でも信じられない。だが、確かに感じる。体内を巡るマナの奔流が整っていくのを。手の内にマナが渦となって収束していく感覚を。
身体が、熱い。と同時。先ほどまでの苦痛が嘘のように消えている。すべてが身体に馴染んでいく。今までの霞んだ視界は透き通るごとく開かれ、脳が明瞭になっていた。
誰もが動きをとめる中で、ロアンヌがどこか安堵して息をついた。
「順応、したのですね……」